2015年7月2日木曜日

「忙しい」という言葉は私にとって主観的な意味を持たない

100kw氏の以下の設問が面白いので、私も考えてみた。
授業で、「時間を長く/短く感じる時について」「忙しいとはなにか」「テクノロジーは忙しさを軽減するか?」についてミニレポート出した。「忙しさとは何か。いつ忙しいと感じるのか、いつから忙しいと感じるようになったか?忙しいの対義語はなにか」ということについての考察してもらった。
— (@100kw) 2015, 7月 2

「忙しい」という言葉は私にとって主観的な意味をあまり持たない。

美味しいとか、悲しいとか、痛い、といった言葉が、それぞれに対応する私の主観、もしくは実感を思い出させるのに対して、「忙しい」には対応する実感が無い。この言葉は私にとって、むしろ他人とのコミュニケーションのための共通の符号として意味を持つ。であるにも関わらず、実は「忙しい」と伝えた相手に対して、これまた私の具体的な状態をあまり伝えない言葉でもある。ただ「不問」とか「ちょっと待ってくれ」という程度の、コミュニケーションの遮断・遅延を意味する言葉である。

さらに、この「忙しい」という言葉の面白いのは、そのように実感が薄いにも関わらず、私の状態を表す言葉として使われているという点だ。

似ているがちょっと違う言葉に「焦っている」というのがある。ただし、焦りには対応する主観や経験がある。焦ることはある。ただ焦っている時には、ほとんどの場合気づいておらず、後から振り返って、焦っていたことに気づく。そのため「焦った」と過去形で口から出ることが一般である。「いま私は焦っている」と言える人は焦っていない。

同じような言葉に「怒り」がある。怒っていることはあるが、その時に自分が怒っていると気づくことはほとんどなく、むしろ気づいたことによって、怒りが収まる場合が多い。収まった後には、諦めとか、むなしさといった別の状態に変わる。恐らく私は、抑えようのない怒り、といった本物に出会わずに済んでいる幸せ者だということだろう。

さて、もとに戻って、「忙しい」の正体について考察してみよう。

私が忙しい、と言っている時、もしくは言い訳している時には、処理速度の不足を通知している時だ。目の前にこなすべき(と感じている)タスクがあり、いずれも遅延を許されない(ように感じてしまっている)時に、私という人間の処理がオーバーフローになっていることを、周りの人物に通知する意味合いで言っている。

しかし上述したように、その時私は「忙しい」と感じているわけではない。こなすべき処理を継続している。一つ一つ書類の山を崩している。興味の湧くタスクであれば、やりがいを感じている場合もある。また、イヤイヤながら機械となって処理をしている場合もある。少なくとも、処理速度が落ちて停滞していたり、放置している状態ではない。

処理速度が落ちていたり、放置している時に「忙しい」とは言わない。「ちょっと無理」「すいません」「勘弁して」「限界です」「やーめた」というのだ、そういう時には。

忙しいという状態は、自分にとってのタスクの価値や、こなしている時の自分の主観とは関係ない。それぞれのタスクには誰かしらクライアントがいて、そのクライアントが要求している期限に対して、私の処理速度ではキツキツであるということを意味する。であるから、他人とのコミュニケーション用の言葉、ということになる。

つまり、クライアントに対して、さらには、処理を分担してもらうべき同僚に対して、さらには、私の健康状態や家事の分担に関して配慮してもらうべく、家族に対して、私の状態を伝える言葉である。

もちろん、私は自分の肉体的、また精神的なリソースを考慮して言っている。毎晩徹夜すれば、または休憩時間を減らせば、短期的にはこなせるかもしれないが、そうするとその後に大きなパフォーマンス低下が生じるため、結果的に平均的な処理速度は低下する。なので、適宜休憩や適切な睡眠をとって、自分のパフォーマンスを一定以下に落とさないようにしても、期限的に厳しいという場合に「忙しい」と言う。

このように考えているため、私の眼からは誤用に思える使い方をする人がいる。例えば、自分の趣味や楽しみを夢中になってこなしている時に、「忙しい」という人だ。それ、忙しいっていうのかな、と思う。あれは大人のジョークなのだろうか。

忙しいという言葉を使い始めたのは、クライアントから期限のあるタスクを多数与えられるようになってからである。学生時代にもクライアントはいたが、社会人になってから明らかにクライアントは増えて、期限に対する厳しさも増した。

上述したように、忙しさは処理速度と期限との関係なので、期限が緩ければ、忙しい状態にはなりづらい。期限が厳しく、処理速度の限界に近ければ近いほど、忙しいになりやすい。

こういった考え方は私が工学系、それも計算機科学を専門とするからだろうか? 多くの人は「忙しさ」を実感としてもっているのだろうか?

忙しさの対義語は、忙しくない、である。暇な時もそうだろうし、余裕がある時もそうだろう。単に私の抱えているタスクと、処理との関係を表している。

時間の経過を短く、また長く感じることはある。これは主観である。私の世界の話だ。これと忙しさとは、私にとっては関係が無い。忙しさは、私の世界の話では無いからだ。これは、いわゆる「現実」、他人と共有する約束事の世界の状態である。

テクノロジーは忙しさを軽減するか、という設問に対して、処理効率化という観点からは私は無関係、と考える。まず、忙しさは単にタスクと処理能力の関係であり、これは例えばコンピュータのCPUが速くなったからといって、コンピュータが暇になるわけではないのと同じである。

忙しさを減ずるには、タスク量をコントロールするしかない。あまりに忙しいと、上述した私のリソースは限界に達するため、たとえ多くのクライアントに感謝されても、多額の収入を得ても、私の人生にとって意味をなさなくなるため、タスク量をコントロールするしかない。

では、さらに未来を想定して、タスクを減らすのに、コントロールするのに、テクノロジーは役立つだろうか。

例えば企業にとって、職員が忙しすぎて身体や精神を損傷したのでは、企業全体としてのパフォーマンスは下がってしまう。喩えれば、右手に働かせすぎて、右手が壊れてしまう人体、といった状態が現在の企業である。いまの企業は上手にコントロールできずにいる。この状態の改善のため、センサーを職員全員に付けてもらい、職員や所属部署の状態を可視化することで、「忙しさ」そのものを制御しようという取り組みが始まっている。

おそらく、そのジョージ・オーウェル的未来では、朝、職場に入ろうとすると、忙しさが限界を超えたため、IDカードが無効になっていて、仕事が自動的に同僚に割り振られている、といったことになっているだろう。強制的に家や、病院に送られて休憩することになるだろう。

もしくは、忙しさ予測エンジンが動いていて、新しいタスクを割り振れる量が、職員それぞれに決まっていて、それを超えてメールを送ることすらできない、といったことになるかもしれない。

ただ、そこまで行ってしまうと、私は次のステップが待っているように思う。入社から退社までの職員のパフォーマンスを予測し、いかに当該企業にとって最適に活用すべきか、といった最適化プログラムが走り始める可能性があるということだ。3年間の期間雇用であるとすれば、その後、その本人がどうなろうと、期限内に企業にとって最大の貢献を与えるように使い切る、といった発想は決して悪夢ではない。

おそらく、自分自身の人生を守るために、私達自身もテクノロジーの力に頼って、それら使い捨てへの対策を講じることになるだろう。やはりイタチごっこということだ。

さて、ここまで考えてきて思うのは、クライアントからの要請の無い人生というのも味気ないものだ、ということだ。顧客であれ、生徒であれ、上司であれ、親であれ、妻であれ、娘であれ、見ず知らずの他人であれ、誰かが必要としていることを、自分の力でなんとかする、手助けをする、というのは社会的動物である我々にとって、とても大きな生きがいである。

それは、QOL(人生のクオリティ)の主要因である。つまり、忙しさというのは、私達が求めているものでもある、ということだ。そのバランスを決めるのは、テクノロジーではなく、私達自身である。






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