2015年9月20日日曜日

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子)を読んだ。

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子)を読んだ。

昨日、2015年9月19日に、安保法制が可決された。悪い意味で歴史に残る日にならなければいいがと思う。今回も、平和と戦争の話をたくさんの人が語った。それを読み、聞きしながら、いくつかの疑問がわいた。子供の頃からいろいろ教えられてきたのにな。いまだに良くわかっていない。

一つ目の疑問は、パワーバランスという手段の有効性だ。

相手がナイフを持っている時に、素手では交渉にならないだろう。相手がピストルを持っている時に、ナイフでは交渉にならないだろう。そういう考え方だが、それには、どれほどの有効性があるのだろうか。特に今問題にしている、国の集まり、対、国の集まり、という大きなレベルになった時に役に立つ考え方なんだろうか? 過去、パワーバランスのおかげで、戦争が回避された、という事実があるのだろうか。日米安全保障条約が、戦後の日本の平和を守ってくれた?のだろうか。中国はなぜ軍備を拡張しているのだろうか?

もう一つの疑問は、賛成・反対両方の人たちが共有できるポイントはなんだろうか、という点だ。

ハナから噛み合っていない印象を持ったので、それでは建設的な議論は難しそうだなと。憲法に合っているかどうかは大事なことだが、そもそも賛成・反対の両方の意見の人たちが一緒に目指すべきゴールは共有されているのだろうか、という疑問である。

仕事の忙しさが一段落したここ数日、これら2つの疑問に対して、モヤモヤとしていた。その疑問に、一つの大事な視点を与えてくれたのが、この「戦争で死ぬ、ということ」という新書である。2006年出版で、古本屋で安く手に入れた。私と同じような疑問を持っている人にとっては必読だと思う。ただ解答を与えてくれるわけではない。

まず、再確認したのは、戦争では普通の人々が殺されるということだ。それはダメだよね。大昔の侍の決闘みたいなイメージをもってしまうことがあるけど、それは間違いだ。もしくはガンダムとか、スターウォーズみたいなカッコ良い戦闘シーンを思い浮かべてしまうけど、これも間違い。弾にあたるのは、爆発で吹き飛ぶ金属の破片に貫かれるのは、私や妻や娘だということだ。

だから戦争になったらアウトである。いかに戦争の種を無くすか、が私達が目指すゴールである。

次に、戦争はある時、明確にスタートするのではなくて、徐々に身動きの取れない状態になっていく、窮鼠が猫を噛まざるをえないようになっていく、ということである。だから難しいんだな。関連して、実際に身近に死を経験しない限り、戦争を実感することができない、というのも難しい点だ。当時、爆撃機に同乗した記者の感想や、太平洋戦争開始のころの国内の人々の感想が、笑えるほど脳天気で怖いなと思う。

昨日もシリアがISの拠点へ空爆を何十回もやった、というニュースが流れていた。こういった話が、あまりに日常茶飯に報じられるので、私は麻痺している。空爆がなされるとどういうことになるのか、空爆された人々はどういう目にあって、どう考えるのか、それを想像する力が無くなっている。

70年前の戦争の時にも、私よりすごく賢い人達がたくさんいて、みな色々と悩んだのだろうと思う。それでも戦争は回避できなかった。いま、私の目の前にはいろんな材料が並んでいて、大量の情報があるのだけれど、戦争を避ける良い方法が見つからない。虚しい感じがする。でも、誰か考えて、といってもどうしようもない。私もダメもとで考え続けるしかない。うむ。

追伸
以下の記事はわかりやすくて参考になった。勉強しないとな。