2010年11月24日水曜日

Apple TVで『長靴をはいた猫』を見る

AppleTVを買って映画をレンタルしてみた。なかなかいいね。最初に借りたのは、懐かしの『長靴をはいた猫』だ。

1969年公開だから、41年前のアニメ映画。映像が綺麗(HDだった)で、話も楽しくいいね。子供のころ、テレビで見たっきりだったから、ほんと久しぶりだった。わくわくするなぁ。魔王はほんと可哀想、ペロは酷い猫だねぇ。しかし、この40年間、アニメの技術は進歩したんだろうか?と思った。そうそうたるスタッフだし、安作りの今のアニメと比べてはいけないのかもしれないが。見ていて安心できる作画、丁寧な動き。ちなみに終盤の追っかけシーンは、『ルパン三世 カリオストロの城』にほんとそっくりだと再確認した。

AppleTVなかなかいい。

2010年10月3日日曜日

十三人と七人

先月末に封切りの『十三人の刺客』を見た。面白かった。迫力だった。

ただ、後味があまり良くない。ヤクザ映画のような虚しさ、無常観が、作り物めいた設定と重なって、ざらりとした後味の悪さを残した。とても良くできた映画で、役者たちの動き、表情、登場人物の個性が生きていて、特撮やセット撮影の迫力も堪能でき、時代劇風の雰囲気もたっぷり味わえた完成度の高い大型娯楽時代劇映画だ。だが、私はどうも、時代劇なるものに、後味の良さを求めているらしいことに気づいた。今まであまり意識したことがなかったのだが。では、その後味の良さとは何か。

この映画はリメイクであるし、さらには当然ながら黒澤の『七人の侍』に大きく影響を受けている。ただ、『七人の侍』を映画史に残る名作にした要素の一つが、どうもこの『十三人の刺客』の侍には無い。それは「気品」だ。昨晩、『七人の侍』を家で見返して、この映画では背筋の伸びるような気品が、端々に表現されていることに今更ながら気づいた。出てくる侍たちの身なりや服装はボロボロで落ちぶれている。だが、そのキリリとした立ち居振る舞い、考え方の背後にある倫理と生き様の水準の高さが、気品を感じさせる。

時代劇は一種のファンタジーだ。アーシュラ・K・ル=グウィンが、『夜の言葉』の「エルフランドからポキープシへ」で語ったように、私たちが生きている世界とは別の世界を、文体の力で創り上げるものだ。ファンタジーの文体の重要な要素の一つがまた、気品である。剣や魔法、ドラゴンを単なる戦争の道具、戦いの道具とするのでなく、彼らにとっての信義・倫理を具現化するものとみなす。その屹立する大樹のような精神性が、ファンタジー世界に気品を与える。

『十三人の刺客』は、時代劇でありながら、時代劇の文体を切り捨てたところにオリジナリティがある。では時代劇で描く必要があったのか?いや、時代劇というフレームの大きさが、この完成度の高い娯楽映画を生んだのだろう。いわゆる時代劇だと思って見るから、私のような勘違い者が出てくる。必殺などと同じく、新しいサブジャンルなのだと考えるべきなのだろう。

2010年8月15日日曜日

iPadはパソコンではない。でかいiPhoneでもない。きっと新しい世界への入り口だ

iPadを使い始めて一週間ほどになる。これは形容しがたい不思議な装置だ。新しい世界の入り口か。

1. パソコンではない

少なくとも、パソコンと同じではない。デスクトップパソコン、ノートパソコン、また、ネットブックとも違う。パソコンを期待して買うと、がっかりするのではないかと思う。大きく違うのは、(1) ファイルシステムが操作できない、(2) 情報作成環境が弱い、(3) ハードウェアキーボードが無い、といった点だ。

パソコンは、ファイル中心にできている。例えば、テキストファイルがあって、それを色々なアプリケーションで見たり、編集したりする。iPadはアプリケーション中心になっていて、同じファイルを別のアプリケーションで操作するのは、やりづらいか不可能だ。このファイルシステムが無い(見えない)、というのが、次の情報作成環境が貧弱、にもつながっている。

パソコンは文章にしろ、画像にしろ、さまざまな情報を作成するのに向いているが、iPadで情報を作るのはとても面倒、または不可能である。Webページ、PDF、画像、映像などを閲覧するのにはとても便利かつ快適だが、いざ何か書こうとか、作ろうと思うと急にハードルが高くなる。その意味でテレビに近い。iPhone/iPod touchは、画面が小さく、処理速度も遅く、何か作ろうと思う余裕がなかったので、それほど気にならなかったが、iPadの処理能力には余裕があるのに、作れない、というのは歯がゆい感じがする。

そしてハードウェアキーボードが無い。ソフトキーボードの使い勝手が悪い、とは思わない。十分良くできていると思う(ただしカナ漢字変換はひどい)。しかしiPadのソフトキーボードはおまけである。一方で、私はパソコンを使うときに、キーボードから指を離すことが少ない。カーソルの移動はもちろん、アプリケーションを変更、コピー・ペーストなど、すべてキーボードで操作する。iPadはタッチインタフェースに特化している。

Macにしろ、Windows, Linuxにしろ。パソコンを使っていると、何か作りたくなる、少なくとも私は。それに対して、今のiPadは受身の態度を要求する。なんか寂しい。もちろん後述するように、良いアプリケーションがまだ少ないのも理由のひとつだろう。

2. iPhone/iPod touchとも違う

「でかいiPhoneだ」という人も多いが、私はずいぶん違うように思う。OSは同じなので、大きくて、重くて、処理が速い、というが違いなのだが、それによって使い勝手がずいぶん違う。あたりまえだが、街角で赤信号を待つ間にちょっと何か調べ物をしたり、といった用途には向いていない。座って使うものだ。

iPhoneやiPod touchの大きな意味は、普段パソコンを使うことが無い、家やオフィスの外で使えるという点だ。外での経験、外での情報と組み合わせて面白みが出る。外出先で、食べログを調べて、店を探す。味わう。コメントをアップする。外出先で友人と離合集散しながら、iPhoneでコミュニケーションを続ける。こういう利用で光る装置だ。座って使うiPhoneやiPod touchに魅力は少ない。

この外で使うメリットを削ぐのが、iPadのサイズだ。信号待ちの最中にiPadをカバンから取り出すのは変だろう。画板のように肩から下げるか?

しかし座って、Webページや、PDF、画像などの閲覧をはじめると、その快適さにうなる。タッチインタフェースもあいまって、スムーズに閲覧できてストレスが少ない。これはiPhone/iPod touchとはまるで違う次元だ。

また上述のように、処理能力にかなり余裕がある。だから単に閲覧するのに使うのでは、十分に潜在能力が生かされていないように感じる。例えばsling Noteというスクラップブック作成ソフトを使っていると、まだ出来は悪いが、「そうだ、こういう箱庭のようなモノづくりのスペースとして使えると、とても魅力的だ」と感じる。

3. 新しい世界の入り口

この平たいコンピュータは、まだその真価を発揮していない。私には、20年前にMacを初めて触った時、また初代iPodを触った時に感じたような、荒削りな可能性、おぼろげな入り口が見えるような気がする。

iPadは他のアップルプロダクトと同じく「引き算」で作られている。引き算で作っているために、その特質が良くも悪くもあからさまになっている。今はまだ、この装置の真の魅力を引き出せるソフトウェアは、出来ていないのではないかと思う。椅子に座り、指を使って操作する平たいコンピュータ空間、隣に座っている人にすぐに見せることができる回覧板、姿勢や所在地を検出して姿を変えることのできる装置、いくつものキーファクターがある。もしかすると名前だけでなく、アランケイのビジョンに近い何かが現れるかもしれない。

2010年7月2日金曜日

列車のファンタジー

出張帰り、家の近所のカフェで少しくつろいでいる。さすがにこの時間、客は少ない。店内には、オーボエの軽快な音楽が流れている。曲調はウェスタンか、カントリーか。

線路の側の店なので、時々電車が通る音がする。天井にある大きな羽が空気をゆっくり掻いている。エアコンの風が直接あたるより快適な気がするが、なぜだろう。

そういえば、けさ日暮里駅のホームで、目の前をEF81に牽引された寝台特急を見た。青い客車の窓に、趣きのある明かりが並んでいるのが見えた。北斗星だった。

N700が普及して、新幹線はずいぶん快適になった。スピードも速い。今の時代、たしかに寝台特急は贅沢な無駄なのだろう。ただ私には憧れがある。列車で寝起きして遠くまで旅をする。見知らぬ土地で、車窓から朝日を見る。

芥川龍之介の『蜜柑』という短編を読んだ。横須賀線の話だ。目の覚めるような見事な短編で、蜜柑のシーンが映画の1シーンのように記憶に残る。心の奥のあたりがジンとなる。

列車に乗って、少し遠くまで行ってみたいな。

2010年5月19日水曜日

前へ一歩出る


前へ一歩出ると楽になる。

子供の頃から今まで何度も一歩手前でもじもじして踏み出せず堂々巡りをして苦しい思いをしたことがある。

小学校低学年のころに近所の友達の家に行き、裏口の扉の前でさんざん逡巡して、けっきょく家に帰ってしまったことがある。たぶん約束していなくて、でも遊びたいと思って、家から来たのだろうと思う。その友達の家の裏口の白いペンキの塗られた古びた戸のイメージがいまだに瞼に浮かぶ。実際どのくらいの時間、立ち尽くしていたのかは分からない。ほんの何十秒だったのか、数十分もなのか。でも、その時の私には無限に長い感じがした。

ちょっとした行き違いが心に引っかかって、喋りにくくなった同僚に声を掛けるのをためらう。小さなことなのだけど、それが妙に印象に覆いかぶさって、ちょうど仕事も忙しいし、相手も忙しそうにしているから、と自分にする言い訳はたくさんあって、時間が過ぎてゆく。

気に掛かる仕事を持ちつつ、また連絡の大事なメールを待ちつつ、少し長い休みに入ってしまって、事態が悪くなっていないといいが、と思いながら出勤する月曜日、ブルーだ。

そんな時、いまの自分をちょっと横におく。自分の思考、ためらい、慮り、プライド、羞恥心、怒り、思惑、仕事、体調、何もかも、今の自分というものを、横におく。すべてを置いて、前へ一歩出る。

電話をかける。声をかける。近づいて顔を見合わせる。手をあげる。メールを書く。入り口に踏み込む。ドアを叩く。職場に出て机に座る。挨拶をする。前へ一歩足を踏み出す。

ほとんどの場合、拍子抜けするぐらい簡単に事が進む。上手くいかない時も、一歩後ろでもじもじしていたころに比べるとずっと楽だと感じる。

だけどまた、たぶん「もじもじ」してしまうんだろうなぁ。未来の自分にエール。

2010年5月9日日曜日

『「お客様」がやかましい』感想

『「お客様」がやかましい』ちくまプリマー新書 森 真一

森さん、あいかわらず見事、「あ、まさにそう」と感じる一冊だ。わかりやすい本だけれど、問題の根深さには目が眩む。そのため、ところどころ読むのが辛くなった。

昔はデパートや、気取ったレストランでしか聞かなかった「お客様」という呼び方が、普通になっている。100円のハンバーガーを買っても、105円の野菜ジュースを買っても、「お客様」である。この「お客様至上主義」の現状と、そのクリティカルな悪影響を語る本だ。

ただ、この本でも取り上げられていて、ネットでも時々見かける次の意見にはちょっと異論がある。それは、海外だと日本のような馬鹿丁寧な顧客対応はしないし、それで気にならない、という話だ。この話の前段、日本のようなバカ丁寧さはない、には同意、しかし後段の「気にならない」には一部反対だ。

まず、ヨーロッパではあまり気にならない、というのは確かだ。それなりに金を出す店では、それなりの対応をしてくれる。スーパーマーケットに行くと、全体に事務的な対応をされる。また個人商店に行けば、人懐っこい対応をされることも多い。ドイツ、スイス、オーストリア、イタリアなど、お国柄で多少違うが、まぁバランスの取れた対応と感じることが多い。日本での対応に慣れていると多少素っ気ない感じはするが、まぁ不快ではない。

しかし、アメリカの対応は酷いと思う。素っ気ないとか、事務的というレベルではなく、ぞんざいだ。時に乱暴に近い。私はニューヨークしかしらないので,他の街は違うのかもしれないが。街の商店などで買い物をすると、何か嫌な事でもあったのか、というような対応に何度も出会う。実際彼ら・彼女らは嫌な目にあっているのかもしれない。もちろん高級イタリアンレストランなど、それなりに金を出す店に行けば対応は違う。しかし、このドライな感じは、日本人の私にとって、けっこう寂しい感じがする。

EUは統合が進むにつれて、どんどん変わっているので、いずれはヨーロッパもアメリカのようになるのだろうか。そうなら寂しいと思う。

そして、実は日本のチェーン店などでの、口だけ丁寧な対応が彷彿とさせるのは、アメリカのぞんざいな対応だ。口先だけの丁寧さは、次の瞬間に殴られるかもしれない、というような危うい人間関係を感じる。

私は、相手とのやり取り、ちょっとした修正、確認、挨拶、表情、仕草などを通じて、相手の人となり、状態を知る。そして、そのやり取りを通じて、少なくとも次の瞬間に、ぶち切れたりはしないと安心する。

しかし口先だけの丁寧な対応、マニュアル通りの台詞を繰り返す人物からは、そういった状態情報を得ることができない。だから不安である。不安なままである。

みんな急いでいる。何かに向かって、一分一秒を急いでいる。無駄なやり取りで「生産性を下げ」ている暇はない。エンデの『モモ』を思い出すね。

2010年4月8日木曜日

Msカレーの店主がお亡くなりになったそうだ

笹塚にエムズカレー(Ms curry)という店があった。
http://r.tabelog.com/tokyo/A1318/A131808/13006913/

先日(2月27日)笹塚散歩したおりに訪れて、美味いポークカレーを頂いた。店主が倒れたのは、その直後らしい。まだ若い人だったのに。

不思議な店だった。

笹塚の商店街の一角に、入店を待つ列があった。店内はカウンターだけで、席が空くと列の先頭から入って着席する。私も順番が来たので、席に座るが、店主は一人もくもくと作業をしている。客の方を見るわけでなく、皿を片付けたり、一人もくもくと作業。

しばらくすると、順番が来たのか、私の目の前に立ち、小さな声でぼそりと注文を聞く。普通盛りか大盛りかが選べるようだ。注文を聞くと、またもくもくと作業に入る。私の前から入店している常連たちは、慣れたもので適当におしゃべりしながら、待っている。

先に入店しても、カウンター全体で1ロットというか、一緒に作るので、早く食べられるわけではない。ポークなど種別ごとに小鍋に人数分を用意して、煮立てるので、みな一緒だ。

サラダみたいのがでてきて、首の細い瓶に、粘性の高いドレッシングが入っている。逆さにしても出てこないので、みなポンポンと底を叩いている。不思議だ。

その内に、ロット毎にカレーがドン、ドンと出てくる。

濃厚で、香ばしく、癖になるタイプの、うまいカレーだった。

店内にはハワイアンかな、波の音と一緒に音楽が流れている。

食べ終わると勘定を払って、出る。店主と顔を合わせたのは、注文時と、勘定時だけ。言葉はふた言程度。

もともと人付き合いがあまり上手ではない人なのだろうと思った。客商売では致命的にも思えるが、いつも店の前には行列。

「お客様はモンスターでも神様」がまかり通る現代に、こういう店が営業出来ているというのは、何か「救い」のような気持ちをいだいて店を後にした。

そうか、お亡くなりになったのか。なんかすごく寂しいぞ。

2010年4月6日火曜日

EvernoteのWindowsアプリが大幅改善

以前,Windows版のEvernoteアプリがひどいということを書いたが,最新版(3.5.2.1764)をダウンロードして,大幅に改善されていることがわかった。やっと使い物になる。
http://www.evernote.com/about/intl/jp/download/

基本的にMac版と,ほぼ同じユーザインタフェース,ほぼ同じ使い勝手になっていると思う(たぶん)。

さらにEvernoteの利便性が上がった。そろそろ年間45ドル払ってプレミアム会員か?

2010年3月27日土曜日

松陰神社前で買い物散歩

妻に連れられて松陰神社前まで世田谷線でお出かけ。
素敵な店がたくさんあった。妻の調査力と街力に感服しました。

ついてすぐ、駅そばのさわやか系の店でカプチーノを頂きました。
フィランジェーリ(イタリアンカフェ)
http://www.nabana-deli.com/
カプチーノ350円!安いけど、おいしい。ピースマークをココアで描いてありました。ここで、目的のパン屋の場所を聞いたところ、すぐ裏とのこと。4時に焼きあがること、すぐ売り切れることも教えてもらいました。

目的のパン屋は、ここ。
ブーランジェリー スドウ(パン)
http://d.hatena.ne.jp/Boulangerie-Sudo/
お洒落なブティックのようなお店です。丁寧に作られた綺麗なパンが並んでいて、並ぶ端から売れてゆきます。いろいろ買ったけど、まだ食べてません。娘はチョコパンを食べて、すごくチョコレートしていて美味いと言ってました。

パンを買った後、文具屋へ。小さなお店。
デスクラボ(文具)
http://www.desklabo.net/
小さな店内に可愛らしい輸入文具が並んでいます。何か覚えがあると思ったら、
吉祥寺の36(サブロ)
http://www.sublo.net/
や、経堂のハルカゼ舎
http://harukazesha.net/
に似てますね。流行りかな。

文具屋に妻を置いて、私は、
美の輪寿司(テイクアウト寿司)
http://seehoo.exblog.jp/3469121/
に行き、いなり寿司とかんぴょう巻きの詰め合わせを買いました。後で調べたら名店らしい。すでに頂きましたが、優しい丁寧な味で美味しかった。この店はいいですね。バッテラや穴子も食べたいな。また行こう。

最後は、
‘OLU’OLU(ドーナッツ)
http://345setagaya.blog.so-net.ne.jp/2010-01-28
でドーナッツを買い求めました。これまた素敵な店構え。昨日いったヒバリを彷彿とする懐かし系のお店でした。女性がひとりのんびり三時を過ごしていました。落ち着ける良い店です。妻がさっき食べてましたが、かなり美味しいらしい。

ということで、ずいぶんと贅沢な気分を味わえる散歩でした。

2010年3月26日金曜日

ごはん屋 ヒバリ

「ごはん屋ヒバリ」というお店に行った。
http://www.tegamisha.com/hibari/
私の徒歩通勤コースの途中、野川から離れるあたりに、神代団地という大きな古い団地がある。その端にある商店街の中にひっそりとある店だ。妻と二人で散歩がてら訪れた。

開放的なピロティを囲む商店街の一角に、童話のように存在する。木造の小学校か、幼稚園といった外観に、シンプルな内装、本棚、内側に事務所がある。水木金土日曜の昼12--14時までのランチと、金土の夜は夕飯があるらしい。店名からして食事がメインなのだろう。今度、食事時に行ってみよう。

今日は喫茶で、コーヒーとチーズケーキをいただいた。おいしかったね。

日が暮れてゆく広場を眺めながら、ストーブで暖を取り、暖かな明かりの下、大きな木のテーブルで書きものをしながら時間が過ぎてゆく。贅沢な時間でした。

駅から離れた古い団地の中にあるので、カフェをやるにはロケーションは良くないと思う。団地に住む人が寄るのだろうか。筋の通った見事な店で、こういう店には長く続いて欲しいと思った。もし私が店をやるとしたら、こういう店だろう。一つの理想型かもしれない。

2010年3月7日日曜日

どうする日本

いま、日本が大きな変化の時代にある、というのは多くの人に共有されている認識だろう。もちろん日本に限らず世界全体が節目の時代にある、とも言えるかもしれない。今の、またこれからの日本の行く末に関連した以下の四冊を短期間に読んで、いろいろ考えるところがあった。少し書き残しておこうと思う。

[1]『コミュニティを問いなおす』広井良典
[2]『日本辺境論』内田樹
[3]『民営化という虚妄』東谷暁
[4]『福祉国家の闘い』武田龍夫

広井氏の視点は今の私にとって思考のベースとなっている。人類が急峻な発展を遂げたのは、長い人類の歴史でも過去数回しかなく、その間の時期はいずれも定常型の社会であった。急成長期とは、人類発祥時期、農業が発明された時期、そして科学が発明された時期である。資源・環境制約が厳しくなってきて、私たちは次の定常期に入ろうとしている。日本の高度経済成長にとって、都市に人工・資源・産業を集中させ、企業内村社会と従属する核家族で支えるという仕組みは、最適であった。しかし次のモデルが求められている。世界で最初に困難に突入する日本にとって、外にモデルは無い。

キーワードはコミュニティ、もう一つはケアである。しかし単純な処方箋は、この本には、ほとんど書かれていない(住宅施策や税制などの提案はあるが、終わりの章で扱われているように問題はもっとずっと根深い)。私たち皆が、どういう未来が欲しいのか考え、自分たちの手で掴みとるしかない。

内田氏の『日本辺境論』は、かなり売れているらしい。が、けっこう曲者な本である。口当たり良く書かれているが、内容はメタ認知的であるため、理解は難しい。日本は常に辺境でありつづけることで、上手く立ちまわってきた。日本人には、中心から遠い村はずれに位置するというメンタリティが抜け難くあって、時に情けない思いもするが、必ずしも卑下することではない。聖徳太子は中国に対し「高等なボケ」をかまして見事に振舞った。その意味で現首相は聖徳太子の末裔かもしれない。

さて、この日本人の特性が効果的でない時期があって、それは日本が先頭になってしまった時だ。外部の良いところを巧妙に取り入れて、アマルガムにしてゆく才能を持つ日本人が困ってしまうのが、先頭を走ってしまう時だ。そして残念ながら、いま世界の変化の時代にあって、ある意味、先頭を走ってしまっている。経済発展という意味では、日本は技術立国のぎりぎりの所まで行ってしまっている。省エネや環境問題に関しても、乾いた雑巾と呼ばれるほど効率化されている。世界に先駆けて極端な少子高齢化に突入する。公共投資による経済対策も限界だ。何もかもが八方ふさがりで、世界を見渡して、ここまで行ってしまった国はない。

東谷氏が書くのは、なつかしき「郵政民営化」である。日本中が祭り騒いだ、あの総選挙。つい最近のことなのに、皆忘れてしまったかのような、あの時期だ。郵政民営化は、何か良い結果を生んだのか?東谷氏は、何も生まなかった。むしろ害ばかりであった、と書く。

郵政民営化の論拠の多くが、諸外国での郵政民営化が成功したから、というものであった。日本人は、外国でうまく行っているとか、外国が始めたとか、外国から言われた、と言うのに極端に弱い。しかし、彼が示すデータからは、手放しで成功した事例など全くないことがわかる。民営化したら、世の中が良くなるなんていう簡単な話では無いのだ。

ちなみに私は、役所の無駄遣いを無くすとか、役所をリストラするとかいうのも、わかりやすいだけで、我々が抱えている問題を解決するのにほとんど役に立たないと思っている。

武田氏は、スウェーデンの実際の姿を具体的に説明してくれる。福祉国家として、まるで北方の楽園であるかのようなイメージしか、多くの日本人は抱いていないだろう、あの国が、いかに大変なのか良くわかる。少なくともこの本を読んで、スウェーデンに住みたいとは全く思わなくなった。私には無理だ。

スウェーデンの高い税金は、多くの福祉予算に使われているが、その大半は高齢者福祉と医療である。しかし高齢者が幸せな生活を営んでいるか、というと、そうではない。実に孤独な寂しい、かつ厳しい老後を送っている。金で片付く問題ではないのだと思う。人と人との豊かな繋がりを下支えする工夫が必要なのだ。

ちなみに、この本は2001年の本で、当時スウェーデンの自殺率は日本と同程度であった。が、今の日本の自殺率はずっと高く、欧米との比較では第一位、ハンガリーやロシアなど広い範囲で比較しても世界第六位の高さとなってしまった。

どうする日本、である。

2010年3月5日金曜日

シャキーンの「この空」という曲

NHKの『シャキーン』という番組が好きだ。番組の中で歌われる曲がいい。エンディングテーマが好きで良く口ずさむ。るるるの歌も好きだ。最近のシャキーンでは『この空』という曲が流れている。

これまで実のところ、この歌は今ひとつだなぁ、と思いながら聞いていた。聞いていたのは月曜日から木曜日。それが、金曜日に聞いて「あっ」と驚いた。そうだったのか。これはいい曲だ。

実は上記HPにも書かれているが、この歌には2つのバージョンがある。一つは、つのだ☆ひろが歌う男性バージョンで、雄々しい感じの曲だ。そして、もう一つが、あやめちゃん(女の子)が歌うラップソングだ。月曜日から木曜日は、それぞれのバージョンが日替わりで交互に流れている。それぞれで聞くと、悪くはないが、それほど印象に残る曲ではない。ところが金曜日は、この二つの歌が同時に歌われる。その時はじめて、この曲の本当の姿が見える。

下記YouTubeに、金曜日バージョンがアップされている。
http://www.youtube.com/watch?v=FJG5uw9It3U
卒業式なんかに歌ったら、かなりシビれるだろうな。

『シャキーン』では、こういう構成の妙を随所に味わえるのがすごいと思う。

2010年3月3日水曜日

インタラクション2010で見えた希望

インタラクション2010という会議に参加して、残念な印象を持ったことを、ここに書いたが、2日目に参加して少し救われる思いがした。フェアな感想という意味で、それも書き残しておこう。

一つは、人間の奥深さに迫ろうという萌芽が見えたことだ。しばらく前から暦本さんらは、人体の機構である、視覚認知、筋電、皮膚電気抵抗などを活用した研究をシリーズで発表している。今回も複数の発表があった。彼らの研究は、人間探求の出発点に位置づけられる。どれも実用には遠いが意志を感じる。他にも古くからのUI研究者が関わった研究に方向性として近いものがあった。私の考える方向とは違うが、その「もがいている」様子は頼もしく感じた。

また、どちらかというとアート系の発表の中に、人間とのインタラクションを真剣に見つめているものがいくつかあった。世間一般に流布している「いわゆる」人間ではなく、彼らなりに人間を考え、その仮説に基づいて、作品を作っている。これらも、まだ本質を掴んでいるようには見えなかったが、その意気込みには共感した。

なお、残念ながら自然現象の奥深さへのアプローチは皆無に近かった。ただ波動方程式を使って動きのある模様を描いたり、呼吸しているような布の動きを追求したり、数理的なモデルの方面から探求しようというアプローチがいくつかあって、一つの可能性として評価したいと思った。

ところで、こういった会議で紹介される膨大な数の研究の多くは、アイデアメーションの類だろう。その膨大な捨石の中から、光を放つものが生まれる。アイデアメーションは数が多くないと意味がない。そういう少し引いた視点にたてば、この会議もそんなに捨てたものじゃない。たぶん、今は端境期にあたるのだろう。

2010年3月1日月曜日

新鮮さを失ったインタラクション

今日、インタラクション2010に参加した。コンピュータのユーザインタフェースに関する発表会だ。これまでに何度も参加したのだが、このところ新鮮味がかなり失われている。主たる原因は、私自身が単に年寄りになった、ということだと思う。ただ、この分野自体がエネルギーを失っているのだとも思う。これほどの参加者・発表者を集めながら、それでエネルギーを失っている、というのは随分な言い草だとは思う。分野として成熟した、という言い方もできる。

今日、論文賞を受賞した若い研究者が、やりたいことがたくさんあってワクワクしている、と感想を述べていた。それを聞いて、彼らにはまだフロンティアが見えているのだと、それが新鮮に感じた。あの会場に集まった大勢の若い研究者たちは、新しい世界を切り開こうとワクワクしているのだ。その熱気は伝わった。

ツールがそろってきて、作られたシステムの仕上がりが上等である。ハードウェアあり、ソフトウェアあり、芸術系あり、生活系あり。その分野の広がりと、見栄えの良さ。見事だと思う。私が熱心にやっていた10年前からすると、彼らの方がずっと上等で、雲泥の出来だと思う。

それでも今日、私自身はほとんどワクワクできなかった。寂しい感じを抱きながら、会場を後にした。

私自身の関心が、コンピュータというよりは、人間に移っているのが大きい。人間の奥深さ、面白さ。それと自然現象の奥深さにも強い関心がある。人間と自然現象、この二つへの洞察が感じられる発表がほとんど無い。それは無いものねだりなのだから、インタラクション2010に求めてはいけないのだろうか。どうしても玩具に見える。それはそれで良いのだけれど、狭い箱庭の世界に閉じている感じがする。

キャンパスを出て、商店街や、山や海に出向いたらどうだろう。自動車や自転車など乗り物と一体になったり。スポーツ、トレイルランニングとか、散歩とか。武道とか。そういう人間や自然の奥深さに出会える場所で、コンピュータを生かすことを真剣に考えるのが良いように思う。