2008年12月30日火曜日

レイモンド・カーヴァー、食事と小説

レイモンド・カーヴァーの『大聖堂』という短編集を読んだ。

ちょっと前のアメリカを主な舞台とする12編が収録されている。中・低所得者層の普通の人たちが主人公の小説だ。かなり追いつめられた、辛い状況の人の話が多い。アル中が多いのは作者の経験からだろう。会社をクビになった人、ギャンブルで財産を失った人、営業の売り上げがじり貧な人、誰をも愛せないが故に誰からも愛されない人、など。普通の作家が書いたらどろどろした臭い話になるだろう。しかし、短く、感傷を配した、ストイックな文体による、すっきりとした、一種、古典悲劇のような深みと気高さを感じさせる小説になっている。見事な短編集だ。作者の作為をあまり感じさせないのは上手いということなんだろうな。

カーヴァー晩年の短編集であり、初期の突き放したような作品からすると、微かな光や、暖かいまなざしが感じられる作品群になっているとのことだ。私には、それが読後感を良いものにしてくれている。どれも切れの良い印象的な短編だが、『大聖堂』『ささやかだけれど、役に立つこと』『ぼくが電話をかけている場所』『列車』の4編が特に印象的だった。

また印象に残ったのは、食べ物を食べるシーンが妙に多いことだ。最初の『羽根』からして食事のシーンが中心の作品で、ミックス・ナッツ、ルート・ビア、ベイクド・ハム、さつまいも、マッシュ・ポテト、いんげん豆、軸つきとうもろこし、グリーン・サラダ、グレーヴィー・ソース、ストロベリー・アイスクリーム、ルバーブ・パイ、次々と食べ物が登場する。他の作品でも、食べるシーン、食べ物に拘るシーンが多い。

そして食べ物を前にした時に、登場人物の人となりが露骨に現れる。その雰囲気、違和感を実に的確に、具体的な描写を重ねながら描く。

私は何度も言っているように、うまそうな食べ物を描く小説家は、無条件で信用することにしている。

それで言うと、カーヴァーは必ずしも美味そうには描かない。まずい食い物もあるのだ。それはもちろん。世の中、美味い食い物ばかりなわけがない。それでも人間は食べる。その姿が人間なるものを、あからさまにし、それが私を惹き付ける。だから、私の宣言の方を変えることにしよう。

私は、食べ物を丁寧に描く小説家は、信用することにしている。

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