2009年10月11日日曜日

世界の下僕としての私

キャロットケーキを味わったり、珈琲の香りを嗅いだり、ソファの座り心地を確認したり、洗濯物の乾き具合を手で確かめたりする。

その時、私は、じぶんの体が伝える感覚を、意識的に掬いとろうと努力する。耳を澄ます。嗅ぎ分けようとする。確かめる。

そこには、指先が触れている対象と、私の指先の感覚器と、感覚器から上がって来た感覚をつかみ取ろうとする無意識の様々な処理主体と、それらに伺いを立てて、微かな手がかりを得ようとする意識、という複雑な繋がりがある。

だけど、うまく繋がっている時は、それらがみな圧縮されて、世界に意識が直接触れているように感じる。それでも多くのものは漏れ落ちている。それに対し、プロ、匠、通人と呼ばれる人たちは、そのチャンネルがとても広く、繊細で、漏れが少ない。

逆に、難しいということから、私たちは自分が日頃思っているよりは、自分のことがわかっていないことに気付く。食べ物の味がわかる、というのは、精神の健全さのバロメータだ。

家を出て、駅まで向かう途中で、ふと鍵をかけたかどうか心配になることがある。鍵をかけた記憶がない。こういう場合、まず間違いなく鍵はかかっている。私が鍵をかけた。

私たちは、自分の意識が号令をかけて、それに従って体が動いている、と思っている。しかし、それは幻想に過ぎない。号令に従っているかのように、体が振る舞ってくれているだけだ。もっと言えば、号令に従っていると意識が思い込まされているに過ぎない。

珈琲の香りを嗅いでいると思わされている。私たちの自尊心は大勢の小人さんたちに支えられて保たれている。実は、私は下僕に過ぎない。世界の下僕だ。阿Qのことを笑える人は誰もいない。

どこまでも寛大な世界に生かされていることに気付く時、そこに何(神)を見るのか、それは人それぞれだ。ただ私は何かしら有り難い感じがする。

2009年10月4日日曜日

ソファ見聞録つづき

表参道の WISE WISE にソファを見に行ったのを皮切りに、新宿の in the ROOM、二子玉川、青山ベルコモンズと、いろいろ店に行って、たくさんのソファに座ってみた。メーカーも WISE WISE, TIMES & STYLES, IDEE, TOCCO, CIBONE, HUKLA など。

なるほど。単に座る道具っていうのに、ほんと色んなものがあるんだな。

たくさん座る内に、自分がどういうソファを求めているのかが、だんだんとわかってくる。この過程が面白いね。意識的にわかるというよりは、体が欲している心地よさ、快適さというのがある。それを徐々に体が教えてくれる。

深くゆっくりと腰掛けて、背もたれに体重をかける。手をアームに載せて、くつろいでみる。その過程、腰掛けている間、姿勢を変える時に、体に色々な情報が伝わってくる。布や革の手触り、お尻に伝わる圧力の分布、背もたれの高さによる体の支え具合、それが連続して微妙な感覚の連続として伝わってくる。

妻と一緒に、散歩と喫茶を兼ねながら、うろうろしてなかなか楽しかった。そろそろ決めようかな。