2015年7月5日日曜日

プラットフォームの構築

書名:「ザ・プラットフォームーIT企業はなぜ世界を変えるのか?」
著者:尾原 和啓
発行日:2015/6/10
発行:株式会社PLANETS

都立中央図書館に遊びに行った時に、新刊書の棚に見つけてめくってみたところ、思いのほか面白かったのでKindleで買った。プラットフォームという言葉に、どういう意味が託されているか、が良くわかる本だった。

発見はあまり多くなかった。しばらく前に報告書で書いたこと、考えていたことを再確認する内容だった。ただ収穫は多かった。特に具体例、彼が所属した内部から書かれている具体例が大変参考になった。iモード、リクルート、楽天などである。

プラットホームとはなんだろう。この本では以下のように定義されている。

「プラットフォームとは、個人や企業などのプレイヤーが参加することではじめて価値を持ち、また参加者が増えれば増えるほど価値が増幅する、主にIT企業が展開するインターネットサービスを指します。」

また、最近の特徴として
・参加のしやすさが格段に上がった
・範囲が拡大し、生活や社会に大きな影響を与えはじめた
があるとしている。

また、彼はプラットフォームと密接な関係にあることとして、プラットホームの運営者たちの共有価値観(Shared Value)があると言っている(私はビジョンと呼んでいた)。この本も彼の共有価値観(「ふむふむ」や「ワクワク」を生む「なぜ?」の共鳴)の一つの実現として書かれている。

私は今まで、プラットフォームとは実用的なものであって、多くの人に役立つアダプタのようなものだと考えていた。実際多くの人にとってプラットフォームの見え方はそういうものだろう。ただそれは中で紹介されていたTEDの講演(サイモン・シネック「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」)におけるWhatの見方、皮相的な見方である。

プラットフォームにとって重要なのはその設計思想である。設計思想は製作者の共有価値観をコアとしている。

アップルの共有価値観はアップルの製品の設計思想のコアである。Googleの共有価値観はGoogleの各アプリやサービスの設計思想のコアである。

プラットフォームには一貫性が大事だ。プラットフォームを作る人、利用する人々はその一貫性を体得し、一貫性に基づく予測をして、手を加える、自分の目的に活用する。

一貫性が見失われた参考にすべき事例としてmixiが挙げられていた。(mixi側からの反論が聞きたいところだ)

共有価値観と設計との間には大きなギャップが存在する。戦略と戦術と言い換えてもいいかもしれない。たとえばmixiでは足あと機能は戦術の一つである。公開日記という日本独特の文化をベースに心理的なバリアを小さくして、ユーザをアクティブにステップアップさせていく仕組みが戦術である。twitterに影響を受け、その一貫性にほころびが生じた、という解説には説得力がある。

この本ではそういった様々な戦術について、具体的に書かれているのが興味深い。各社の共有価値観や戦略についてはある程度はネット調べれば出てくる。また非常に印象的に表出されるので我々の記憶にも残る。一方で共有価値観と、それぞれのアプリやサービスや製品の設計との間の関連性は中々表には出ない。

例えば、この今手元にあるiPod touchと言う製品も、たくさんの人が関わって作られている。私には、いかにもティム・クックの共有価値観が体現されているエッジの立った製品だなと思う。ジョブズのころのiPod touchのテイスト(丸いフレンドリーな、それでいて個性の強い。私は個人的にはジョブズ派)との違いが印象的だった。制作に携わる多くの人に、うまく共有価値観が伝わらないと、ティム・クックのiPod touchのような完成度の高い製品はできない。完成度と言うのは共有価値観の再現度という意味である。

サイモン・シネックのTEDの講演で、スペックをいくら謳っても人の心には何も届かない、という話が出てきた。Whyを伝えることが肝心である。そしてそれができる人は極めて数少ない。まぁそうだよなぁ。

この年齢の私にとって何が大事かというと、どれほど私にとって魅力的な、さらに多くの人の共感を得られる共有価値観を語れるかということだ。共有価値観に関しては、いろんな人に何度も何度も伝え、反芻して改善を繰り返していく必要がある、本当にその内容・表現で良いのかよくよく考える。再考する。共有価値観を言葉にするのもとても大事だ。

以下は私の共有価値観についての話だ。

私たちの毎日の生活の中には、不便な隙間がいっぱいある。みんなそんなもんだろうと思って生活している。例えば今消したこのエアコンも、まるで使い勝手は良くない。その他にも照明や寝具や場所の使い方や、とにかくいろいろな不便がたくさんある。それらの小さな、みんなが我慢している不便な点を補うところにバリューが生まれると考えている。

どれも小さいバリューなのでそんなにたくさんのお金は払えない。例えば私の家の中の片付けが多少まともになるからといって、月々3,000円のお金を払うだろうか。いや私は払わない。一個一個を取り出して見れば小さな不便であり、我慢すれば済むこと、または良くできる人ならば何とかしてしまっていることなのだ。

しかしみんなが片付けが上手でも、みんなが食材の使い方が上手でも、ゴミの出し方が上手なわけでもない。みんな何かしら苦手なことがあって、何かしら我慢をしている。それは匠に住宅改造してもらうような大掛かりなことをしなくても、多くの場合何とかなる。でも助けてくれる人はいないので、そのまま不便が不便のまま放置される。

その不便のいくつかを小さく解消して、私たちの生活のレベル、QOL(Quality of Life)を向上するところにこそ、新しいプラットフォームの存在価値がある。

もともと電気というものが、そういうものではなかったか。コンセントにプラグを差し込めば、どんな電気製品でも動くなんて、ものすごいプラットフォームだと思う。停電もしないし、電圧や周波数も安定しているので、メーカーも利用者も、ほとんど水道水のように意識せずに使えるプラットフォームである。

私がいま考えている共有価値観は
「生活のクオリティを共有し、その中で見出される隙間を丁寧に埋め、バリューが生まれる場を作る」
である。

新しいプラットフォームの構築に貢献したいと思う。かすかでも。


2015年7月2日木曜日

「忙しい」という言葉は私にとって主観的な意味を持たない

100kw氏の以下の設問が面白いので、私も考えてみた。
授業で、「時間を長く/短く感じる時について」「忙しいとはなにか」「テクノロジーは忙しさを軽減するか?」についてミニレポート出した。「忙しさとは何か。いつ忙しいと感じるのか、いつから忙しいと感じるようになったか?忙しいの対義語はなにか」ということについての考察してもらった。
— (@100kw) 2015, 7月 2

「忙しい」という言葉は私にとって主観的な意味をあまり持たない。

美味しいとか、悲しいとか、痛い、といった言葉が、それぞれに対応する私の主観、もしくは実感を思い出させるのに対して、「忙しい」には対応する実感が無い。この言葉は私にとって、むしろ他人とのコミュニケーションのための共通の符号として意味を持つ。であるにも関わらず、実は「忙しい」と伝えた相手に対して、これまた私の具体的な状態をあまり伝えない言葉でもある。ただ「不問」とか「ちょっと待ってくれ」という程度の、コミュニケーションの遮断・遅延を意味する言葉である。

さらに、この「忙しい」という言葉の面白いのは、そのように実感が薄いにも関わらず、私の状態を表す言葉として使われているという点だ。

似ているがちょっと違う言葉に「焦っている」というのがある。ただし、焦りには対応する主観や経験がある。焦ることはある。ただ焦っている時には、ほとんどの場合気づいておらず、後から振り返って、焦っていたことに気づく。そのため「焦った」と過去形で口から出ることが一般である。「いま私は焦っている」と言える人は焦っていない。

同じような言葉に「怒り」がある。怒っていることはあるが、その時に自分が怒っていると気づくことはほとんどなく、むしろ気づいたことによって、怒りが収まる場合が多い。収まった後には、諦めとか、むなしさといった別の状態に変わる。恐らく私は、抑えようのない怒り、といった本物に出会わずに済んでいる幸せ者だということだろう。

さて、もとに戻って、「忙しい」の正体について考察してみよう。

私が忙しい、と言っている時、もしくは言い訳している時には、処理速度の不足を通知している時だ。目の前にこなすべき(と感じている)タスクがあり、いずれも遅延を許されない(ように感じてしまっている)時に、私という人間の処理がオーバーフローになっていることを、周りの人物に通知する意味合いで言っている。

しかし上述したように、その時私は「忙しい」と感じているわけではない。こなすべき処理を継続している。一つ一つ書類の山を崩している。興味の湧くタスクであれば、やりがいを感じている場合もある。また、イヤイヤながら機械となって処理をしている場合もある。少なくとも、処理速度が落ちて停滞していたり、放置している状態ではない。

処理速度が落ちていたり、放置している時に「忙しい」とは言わない。「ちょっと無理」「すいません」「勘弁して」「限界です」「やーめた」というのだ、そういう時には。

忙しいという状態は、自分にとってのタスクの価値や、こなしている時の自分の主観とは関係ない。それぞれのタスクには誰かしらクライアントがいて、そのクライアントが要求している期限に対して、私の処理速度ではキツキツであるということを意味する。であるから、他人とのコミュニケーション用の言葉、ということになる。

つまり、クライアントに対して、さらには、処理を分担してもらうべき同僚に対して、さらには、私の健康状態や家事の分担に関して配慮してもらうべく、家族に対して、私の状態を伝える言葉である。

もちろん、私は自分の肉体的、また精神的なリソースを考慮して言っている。毎晩徹夜すれば、または休憩時間を減らせば、短期的にはこなせるかもしれないが、そうするとその後に大きなパフォーマンス低下が生じるため、結果的に平均的な処理速度は低下する。なので、適宜休憩や適切な睡眠をとって、自分のパフォーマンスを一定以下に落とさないようにしても、期限的に厳しいという場合に「忙しい」と言う。

このように考えているため、私の眼からは誤用に思える使い方をする人がいる。例えば、自分の趣味や楽しみを夢中になってこなしている時に、「忙しい」という人だ。それ、忙しいっていうのかな、と思う。あれは大人のジョークなのだろうか。

忙しいという言葉を使い始めたのは、クライアントから期限のあるタスクを多数与えられるようになってからである。学生時代にもクライアントはいたが、社会人になってから明らかにクライアントは増えて、期限に対する厳しさも増した。

上述したように、忙しさは処理速度と期限との関係なので、期限が緩ければ、忙しい状態にはなりづらい。期限が厳しく、処理速度の限界に近ければ近いほど、忙しいになりやすい。

こういった考え方は私が工学系、それも計算機科学を専門とするからだろうか? 多くの人は「忙しさ」を実感としてもっているのだろうか?

忙しさの対義語は、忙しくない、である。暇な時もそうだろうし、余裕がある時もそうだろう。単に私の抱えているタスクと、処理との関係を表している。

時間の経過を短く、また長く感じることはある。これは主観である。私の世界の話だ。これと忙しさとは、私にとっては関係が無い。忙しさは、私の世界の話では無いからだ。これは、いわゆる「現実」、他人と共有する約束事の世界の状態である。

テクノロジーは忙しさを軽減するか、という設問に対して、処理効率化という観点からは私は無関係、と考える。まず、忙しさは単にタスクと処理能力の関係であり、これは例えばコンピュータのCPUが速くなったからといって、コンピュータが暇になるわけではないのと同じである。

忙しさを減ずるには、タスク量をコントロールするしかない。あまりに忙しいと、上述した私のリソースは限界に達するため、たとえ多くのクライアントに感謝されても、多額の収入を得ても、私の人生にとって意味をなさなくなるため、タスク量をコントロールするしかない。

では、さらに未来を想定して、タスクを減らすのに、コントロールするのに、テクノロジーは役立つだろうか。

例えば企業にとって、職員が忙しすぎて身体や精神を損傷したのでは、企業全体としてのパフォーマンスは下がってしまう。喩えれば、右手に働かせすぎて、右手が壊れてしまう人体、といった状態が現在の企業である。いまの企業は上手にコントロールできずにいる。この状態の改善のため、センサーを職員全員に付けてもらい、職員や所属部署の状態を可視化することで、「忙しさ」そのものを制御しようという取り組みが始まっている。

おそらく、そのジョージ・オーウェル的未来では、朝、職場に入ろうとすると、忙しさが限界を超えたため、IDカードが無効になっていて、仕事が自動的に同僚に割り振られている、といったことになっているだろう。強制的に家や、病院に送られて休憩することになるだろう。

もしくは、忙しさ予測エンジンが動いていて、新しいタスクを割り振れる量が、職員それぞれに決まっていて、それを超えてメールを送ることすらできない、といったことになるかもしれない。

ただ、そこまで行ってしまうと、私は次のステップが待っているように思う。入社から退社までの職員のパフォーマンスを予測し、いかに当該企業にとって最適に活用すべきか、といった最適化プログラムが走り始める可能性があるということだ。3年間の期間雇用であるとすれば、その後、その本人がどうなろうと、期限内に企業にとって最大の貢献を与えるように使い切る、といった発想は決して悪夢ではない。

おそらく、自分自身の人生を守るために、私達自身もテクノロジーの力に頼って、それら使い捨てへの対策を講じることになるだろう。やはりイタチごっこということだ。

さて、ここまで考えてきて思うのは、クライアントからの要請の無い人生というのも味気ないものだ、ということだ。顧客であれ、生徒であれ、上司であれ、親であれ、妻であれ、娘であれ、見ず知らずの他人であれ、誰かが必要としていることを、自分の力でなんとかする、手助けをする、というのは社会的動物である我々にとって、とても大きな生きがいである。

それは、QOL(人生のクオリティ)の主要因である。つまり、忙しさというのは、私達が求めているものでもある、ということだ。そのバランスを決めるのは、テクノロジーではなく、私達自身である。