2015年2月5日木曜日

「融けるデザイン」を読了

「融けるデザイン」(渡邊恵太)を読み終えた。面白かった。
http://www.bnn.co.jp/books/7305/

内容の8割ぐらいは既知、1割ほど新味、1割ほど懐疑・不明、という印象だ。だから、かなりレベルが高い。最近私は、読書では、この2割ぐらいの新味&懐疑・不明が、いい塩梅ではないか、と思っている。全部既知、というかスルスルと中に入ってくるようだと面白くない。新鮮さが無いし、刺激的でもない。一方で、新しいこと、不明点が多すぎると、ちっとも読めずに、苦労する。まだ、自分がそのレベルに到達していない、とか、そもそも変なこと、もしくは時代を先取りしすぎたことが書かれている、ということで、時が熟していない。それを難読するのもまた面白くはあるが。知的トレーニングとしては、この2割ぐらいのノベルティがいい。

渡邊氏の仕事はずっとウォッチしてきたので、最後のLiveSurface以外は知っていた。また背後にある考えも、それなりに理解してきたので、新味がない。全体としては、そういうことになるんだろうな、と理解した。またノーマン、ギブソン、ワイザーらの話や、Macintosh、iPhoneについても、ずっと読み、体験し、考えてきたことなので、その通りだな、という印象である。もしくは多少の異論はあるにしても、HCI研究者としては常識的な内容を、見通しの良い日本語で的確に整理した、と捉えるべきかもしれない。

新味を感じて面白かったのは、4章と5章で、情報の道具化、環境化を論じている箇所だ。ちょうど今、コネクテッドホーム、家庭向けIoTの可能性について、いろいろ作ったり、実験したり、調査したりしていて、それと呼応する内容だったので、膝を打った。何度も。そうそう、という感じだ。叩きすぎて膝が痛いほど。

インターネットに接続されることで、私たちの身の回りの道具や環境が、全て繋がった、融け合った状態になりつつある。そこには、つながりの悪い「モッサリ」した部分も当然含んで、しかし、ある部分は「サクサク」と、一切の抵抗無く世界の裏側まで貫いてしまうような接続性が担保されつつある。

そのため旧来の、無駄に完成度が高くなっていたジョイントの一部は、不要になる可能性が出てきている。それは特にエンジニアリング、工学の分野で多い。一種のルール無用が生じている。単位が消えてしまう、というのもその話だ。もっと身体に近いところで、別の言語化がなされるようになり、それが、そのまま適切にコピー&ペーストできるようになる。

例えば、暑さ・寒さとか、湿度とかいった概念も、もっと情緒に近いレベルで、より細やかに表現できるようになるのではないか、と思う。15度といっても、それは人間にとってのクオリティを適切に表せていない。もっと使える表現、使える記憶方式、が実現できる。「あの時の南軽井沢の朝」というような。

6章、7章の、デザインの現象学、メディア設計からインターフェイスへ、は、まだ始まったばかり、という印象である。書いてある内容はわかるが、設計論としては具体性というか、リアリティが不足している。これからの活動に期待したい。

一方で、注意深く書かれてはいるが、タンジブル関連の記述に、若干いじわるさを感じた。TUI自体を攻撃しているわけではなく、「モノ」や「物理的な対象」に考えが縛られることを警戒しているのだが。私の理解では、人間にとって、生まれた時から制約・束縛として付き合い続けた、さらには進化の過程で大昔から馴染んできた、身体と物理的な環境とのインタラクションにおけるインバリアントは、何を考える上でも極めて重要な制約条件なのだ、ということだと思う。さらに、その強固な持続性、一貫性は、たとえ多くが錯覚であっても、強い「安心感」「やすらぎ」の根拠となっている、というのも重要な点だと思う。

今後、テクノロジーはどんどん進化するだろうが、この安心感、やすらぎがどのように生まれるのか、は十分に理解し、活用すべきだろう。触覚も視覚と同じく、そのエッジに様々な見えが集約されている。聴覚や嗅覚もしかりだ。それら全てを包含して、新しいデザインの現象学が生まれるのだろうと考える。

いずれにしろ、IoTを単に、センサネットワークのようなものと思っている、日本のエンジニア・デザイナには、ぜひ本書を通読して、次のステップへ進んでいただきたい。これを読まずにIoTを語るエンジニアを私は信じない。



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