2017年10月8日日曜日

虚構の深さーメイドインアビスー

今期、興味を持って見続けたTVアニメーションに「メイドインアビス」がある。何も先入観なしに、毎週見続けた。原作のマンガも読んでおらず、ファンたちの書いた文章にも触れず、リコとレグの旅に付き合った。

最初の数話を見ている間はずっと違和感があった。主人公のメガネの少女、リコの行動原理が腑に落ちなかったためだ。それは、主人公だけでなく、出てくる人間すべてに大なり小なり感じる違和感だった。彼等はアビスという危険な洞穴に、何故潜ろうとするのか。価値ある遺物を収穫するという目的はあるが、それにしても危険である。

もちろん私たちの世界にも、洞窟を探検したり、北極を目指したり、深海に挑む冒険家たちがいる。しかし彼等は一種特殊な人たちであって、その他大勢の私たちは、なるべく危険がない生活をしたいと思っている。たまにはハンググライダーに乗ってみたいとか、バンジージャンプをしてみたいとか、冒険心を感じることも無いでは無いが、人生のほとんどは冒険とは無関係な時間を過ごしている。

何故か。損だと思うからだ。怖いからだ。冒険によって得られる価値よりも、日常の他の楽しみによって得られる喜びに価値を感じ、同時に低いリスクを想定しているからだ。小さなリスクによって得られる大きな価値に時間を費やそうとする。

よって、冒険者を描く過去の多くの作品では、冒険者の周辺に大勢の普通の人々を描く。読者の代弁をする存在を。冒険者は私たちの世界同様に特別な人々であると描く。それによって、私は自分の世界との地続きを感じ、リアリティを感じる。

これに対し、この作品ではアビスを取り巻く島の住民全体が、アビスに潜ることを前提に生活している。住民の価値観が、アビスに潜ることを最上として構成されている。それは主人公たち小さな子供たち、教育機関にまで、隅々に行き渡っている。

まるで軍事国家を見ているようだ。独裁軍事国家ではこういった特殊な価値観が隅々にまで行き渡ることがある。小さな子供が疑うことなく、危険に向かおうとする常識が支配する世界である。

リコは目を輝かせて、アビスに潜りたい、もっと深くに、と言う。もちろん彼女の特殊事情もあるのだが、その特殊事情は一種言い訳に過ぎず、彼女は心底行きたいと思っている。周辺の人物たちも、その価値観に関して異論なく共感している。

一種、不気味な世界である。可愛らしい絵柄の、滑らかなアニメーション、重厚な効果音と音楽、緻密な設定、ディティール、完成度の高い美しい作品と、この不気味な世界というアンバランスが、私に消化できない思いを抱かせる。

実は、もう一人の主人公であるロボットのレグが、私達と価値観の近い代弁者であることが、徐々に明らかにされる。レグは記憶を失っているため、視聴者と同じく無知な状態で世界に放り出されている。その相対化された視点から、この作品の世界の構造がゆっくりと明らかになってくる。彼らの価値観がゆっくりと理解できるようになっていく。

後半になって、主人公たちは過酷な状況に追い込まれていく。残酷な痛々しい表現が度々登場する。私は昨今、残酷描写が多く含まれる作品が好まれる傾向があると思う。かつてなら直接描かなかったような表現をあからさまに描く風潮がある。

しかし、その残酷な表現を、視聴者が許容できるか否かは、製作者にとって賭けであると思う。少なくとも私は、ただ残酷であるということで作品に高評価を与えることは無い。たしかに世界には残酷な一面もあるが、それを描かずとも読者に感動を与えることはできる。むしろ、作品としての必然性がなく、残酷描写を作者が喜んでいるかのような舞台裏が覗く作品には嫌悪感を感じる。

この作品は、私にとってはかろうじて、かなり微妙な瀬戸際で、必然性を感じさせることに成功している。

それは、アビスのディティールを丁寧に描き、対応する人間たちのアビス信仰を丁寧に描くことで、止むに止まれぬ必然として、主人公たちの冒険を描けているからだと思う。

さらに、最後あたりで新しい主人公ナナチが登場し、別の時間軸の、特殊な別のストーリーが語られる。これによって私達は、アビスという架空の中心に根をおろした、複数の具体例を知ることになる。

私はここにいたって初めて、これは私達の物語であることに気付いた。

この文章はその気付きについて語るために書き始めた。

例えば、私達は「科学信仰」に支配されている。科学の深淵に挑み続けている。ときに倫理の狭間をこえてでも、真理を探求しようとする。ノーベル賞は、境界を超えて、真理の深みに到達した白笛に与えられる賞である。

これは一種の狂気ではないか。わたしたちもアビスに住む人達と同じ危ういエッジにいるのではないか。

メイドインアビスは、私たちの世界とは違う虚構、特殊な世界の特殊な人達を、その環境、風習、価値観に至るまで、深く描いている。それによって、わたしたちの世界の構造、人間=ホモ・サピエンスという種の特殊性をあぶり出している。

これこそが指輪物語でトールキンが切り開いたハイファンタジーの醍醐味ではなかろうか。

今期の最後、最終回のエンディングで、地上に向かって放たれた通信気球がアビスを登っていくシーンが挿入されている。行きて帰りし物語の帰投を暗示させるシーンを見ながら、私は、久しぶりに本格的なファンタジー作品に出会えたことに深い喜びを味わった。原作者、監督含め関わった多くのスタッフに感謝したい。


2016年6月22日水曜日

Raspberry Piで AK-020 with soracom による接続メモ

soracom + AK-020 + Raspberry pi
メモとして残す。

Raspberry piで最安にソラコムを使うには、AK-020を使うのが良い。
設定に若干苦労した。パーミッションがちょっとづつ問題だった。

以下を参考にした。基本はOKなので、このまま動く人も多いだろう。
(Raspbian) AK-020で3Gモデム自動接続(毎回のejectとmodprobeなし)
http://qiita.com/aquahika/items/dc7d8ad8f481414d3528

まず、wvdial と usb-modeswitch をインストール
 pi@raspberrypi:~ $ sudo apt-get install -y wvdial usb-modeswitch

次に、/etc/wvdial.confと/etc/ppp/peers/wvdialを設定
設定方法は、以下のURLの通り
http://qiita.com/j3tm0t0/items/08c199fb8863b69e1139

次に、/lib/udev/rules.d/40-usb_modeswitch.rules
に以下を記述しAK-020が接続されたら、認識するようにする。
 #ABIT AK-020
 ATTR{idVendor}=="15eb", ATTRS{idProduct}=="a403", RUN+="usb_modeswitch '%b/%k'"

さらに、
/etc/usb_modeswitch.d/15eb:a403
という新規ファイルを作成し、以下を記述し、usb-modeswitchで認識できるようにする。
 DefaultVendor = 0x15eb
 DefaultProduct = 0xa403
 TargetVendor = 0x15eb
 TargetProduct = 0x7d0e

 StandardEject = 1

それと、/etc/rc.localに
 modprobe -v option
 echo "15eb 7d0e" > /sys/bus/usb-serial/drivers/option1/new_id
を記述。/dev/ttyUSB0などとモデムが認識できるようになる。

最後に/etc/udev/rules.d/10-soracom.rules
を新規作成し、
 ATTRS{../idVendor}=="15eb", ATTRS{../idProduct}=="7d0e", ATTRS{bNumEndpoints}=="03", ATTRS{bInterfaceNumber}=="02", SYMLINK+="modem"
を記述する。/dev/modemという名前で認識されるようになる。

再起動する。
 ls /dev/modem
で見えていることを確認する。

 sudo wvdial
で接続する。このsudoで接続する、という所をやっていなかった。一般ユーザだとpppdが落ちてしまう。

 ifconfig
でppp0にちゃんとIPアドレスが割り当てられていることを確認する。

無線LANをオフにするには
 sudo ifconfig wlan0 down

無線LANが切れていても、インターネットに接続できることを確認する。

無線LANを再開するには
 sudo ifconfig wlan0 up

モデムは、
 sudo poff
で切断

以上

2015年9月20日日曜日

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子)を読んだ。

「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子)を読んだ。

昨日、2015年9月19日に、安保法制が可決された。悪い意味で歴史に残る日にならなければいいがと思う。今回も、平和と戦争の話をたくさんの人が語った。それを読み、聞きしながら、いくつかの疑問がわいた。子供の頃からいろいろ教えられてきたのにな。いまだに良くわかっていない。

一つ目の疑問は、パワーバランスという手段の有効性だ。

相手がナイフを持っている時に、素手では交渉にならないだろう。相手がピストルを持っている時に、ナイフでは交渉にならないだろう。そういう考え方だが、それには、どれほどの有効性があるのだろうか。特に今問題にしている、国の集まり、対、国の集まり、という大きなレベルになった時に役に立つ考え方なんだろうか? 過去、パワーバランスのおかげで、戦争が回避された、という事実があるのだろうか。日米安全保障条約が、戦後の日本の平和を守ってくれた?のだろうか。中国はなぜ軍備を拡張しているのだろうか?

もう一つの疑問は、賛成・反対両方の人たちが共有できるポイントはなんだろうか、という点だ。

ハナから噛み合っていない印象を持ったので、それでは建設的な議論は難しそうだなと。憲法に合っているかどうかは大事なことだが、そもそも賛成・反対の両方の意見の人たちが一緒に目指すべきゴールは共有されているのだろうか、という疑問である。

仕事の忙しさが一段落したここ数日、これら2つの疑問に対して、モヤモヤとしていた。その疑問に、一つの大事な視点を与えてくれたのが、この「戦争で死ぬ、ということ」という新書である。2006年出版で、古本屋で安く手に入れた。私と同じような疑問を持っている人にとっては必読だと思う。ただ解答を与えてくれるわけではない。

まず、再確認したのは、戦争では普通の人々が殺されるということだ。それはダメだよね。大昔の侍の決闘みたいなイメージをもってしまうことがあるけど、それは間違いだ。もしくはガンダムとか、スターウォーズみたいなカッコ良い戦闘シーンを思い浮かべてしまうけど、これも間違い。弾にあたるのは、爆発で吹き飛ぶ金属の破片に貫かれるのは、私や妻や娘だということだ。

だから戦争になったらアウトである。いかに戦争の種を無くすか、が私達が目指すゴールである。

次に、戦争はある時、明確にスタートするのではなくて、徐々に身動きの取れない状態になっていく、窮鼠が猫を噛まざるをえないようになっていく、ということである。だから難しいんだな。関連して、実際に身近に死を経験しない限り、戦争を実感することができない、というのも難しい点だ。当時、爆撃機に同乗した記者の感想や、太平洋戦争開始のころの国内の人々の感想が、笑えるほど脳天気で怖いなと思う。

昨日もシリアがISの拠点へ空爆を何十回もやった、というニュースが流れていた。こういった話が、あまりに日常茶飯に報じられるので、私は麻痺している。空爆がなされるとどういうことになるのか、空爆された人々はどういう目にあって、どう考えるのか、それを想像する力が無くなっている。

70年前の戦争の時にも、私よりすごく賢い人達がたくさんいて、みな色々と悩んだのだろうと思う。それでも戦争は回避できなかった。いま、私の目の前にはいろんな材料が並んでいて、大量の情報があるのだけれど、戦争を避ける良い方法が見つからない。虚しい感じがする。でも、誰か考えて、といってもどうしようもない。私もダメもとで考え続けるしかない。うむ。

追伸
以下の記事はわかりやすくて参考になった。勉強しないとな。

2015年8月7日金曜日

ジョン・マクタガート「時間の非実在性」と生物の生存戦略との関連について

 娘から教えてもらって調べてみた。マクタガートという人が昔(1908年)に書いた論文の話であった。最初は何のことを言っているのかわからなかったが、色々調べてみて、最終的には入不二氏による、以下のメモを読んでやっとわかった。
 私が混乱した理由は、自分勝手に解釈している人が多数いたためだ。勘違いしているというよりは、自分なりの視点で取り上げているだけなのかもしれないが。
結論から言うと、上記メモにある
 「時間は決定的に相容れない二つのリアリティによって構成されている」
というのが、もっともしっくり来る。
 マクタガートが最初に言った内容は曖昧で、いろんな解釈を生んでしまう余地があった。しかし、彼が感じていた混乱は、多くの人に共感される内容で、その意味で本質的だった。そのため、多くの人が自分に引き寄せて、その混乱を解消しようと努力した、ということのようだ。
 マクタガートは、その混乱のことを、矛盾と呼んだ。Wikipediaでは、「矛盾もしくは説明するのに不足」と弱められている。ただ、どちらかというと、矛盾の方が近い。
 マクタガートは
 「出来事について、過去・現在・未来は、両立不可能かつ両立可能」
という矛盾がある、と言っている(上記の入不二氏のメモによる)。
 以下、出来事をeと略する。未来のあるeは、現在になり、過去になる。つまりeは未来にも、現在にも、過去にもある。これが両立可能という意味である。私の51歳の誕生日e51は現時点では、未来の出来事だが、今年の11月2日には現在になり、来年には過去になっている。この時間感覚、出来事の変化という感覚は、我々にとって確かな実感=リアリティがある。
 一方で、同じeが、未来と現在と過去に同時にあることはできない。今という時点では、どれかにしかなれない。これが両立不可能という意味である。
 もう少し私流に補足すると、私たちは現在しか観測できない。今にしか生きられない。いま観測している出来事eが、かつて未来にあったというのは空想に過ぎない。いま目の前にeがあるので、きっと未来なる所にあったものが、やってきたと勝手に空想しているに過ぎない。さらにはこれからeは過去になる、と言っても、それは私の記憶の中の話でしかない。この実在するのは、今しかないという感覚、これも確かな実感=リアリティである。

 川を流れる桃で喩える。川の流れを時間とする。川の上流にあった桃が、流れてきて、洗濯をしているおばあさんの目の前に現れて、放っておけば下流に流れていく。この、桃が上流にあった筈、目の前にある、下流にあるようになる筈、というのが、両立可能性である。
 一方で、おばあさんは目の前に現れた桃しか観測できないため、上流にあったはずとか、下流に流れた筈、というのは想像の世界でしかない。少なくとも目の前に桃がある時には、上流や下流には同じ桃は無い筈である。桃は一個しか無い。これが両立不可能性である。
 桃が一個しか無いというリアリティと、桃が上流・目の前・下流にある筈というリアリティは、どちらも強力である。
 時間なるものが実在する、というのを極端に拡張して述べると、上流世界と、目の前世界と、下流世界というのが存在する、ということである。これは空間に関しては矛盾を生じない。しかし、時間に関して言うと、未来世界と過去世界が存在する、ということである。
 SFのタイムマシンの話で出てくる、タイムパラドックスは同じことを言っている。もし過去世界が実在するなら、タイムマシンで過去に私が行って、私を殺すことができる。そうすると、私は存在しないことになるため、私は過去の私を殺せない。つまり矛盾を生じる。これは過去世界が実在するという前提が間違っている、という結論になる。
 しかし私たちは過去世界があるような気がしてならない。同じようにセワシくんがやってくる未来世界があるような気がしてならない。どうしようもないリアリティがある。過去の自分というのが実在する、ような気がする。強くそう思う。明日の自分が実在するような気がする。これも強く感じる。
 一方で、今しか無いという感じも厳然として強くある。過去や未来は頭の中の話だ、という声が強く聞こえる。感じられる。


 この話と、ジェフ・ホーキンスが述べていた人間の脳に関する仮説は、関連が深いと私は考える。(「考える脳 考えるコンピュータ」ジェフ・ホーキンス(2005))

彼は、大脳の新皮質の主要な機能は、経験したデータを蓄積して、未来を予測することだ、という仮説を提案している。生物にとって未来を予測するのは極めて重要な能力である。上から落ちてきた岩が自分に直撃する、ということを予測できないとペシャンコになって死んでしまう。死んだ仲間は、この世にいないので、死ななかった仲間、岩を避けられた生物が、我々の祖先になっている。
 つまり、生物にとって過去のデータをしっかり蓄積して、起こりうる未来を正確に予測することは大事だということである。私たちの新皮質はそれに特化した柔軟な能力を備えている、という仮説である。
 私たちにとって時間の存在がリアリティを持つのは、この新皮質の特性によると私は考える。
 同時に、過去は私たちの適当な記憶で構成されており、未来は予測の中にしかない、つまり確実性が低い。この事実も、私たちの脳に強く刻み込まれている。疑いもせずに過去や未来を信じると、大きなリスクを背負い、やがて死滅する。常に予測不可能な余地を残しておかないと、急変に耐えられない。これが、今しかない、と感じる私たちの強いリアリティの根拠だと思う。
 つまり、人間は生き残るために、時間という捉え方の重要性も十分に理解している。一方で、今しかないという捉え方、過去や未来は不確実という捉え方の重要性も理解している。この突き詰めると矛盾する二つの納得が、頭の中に混在してる。これがマクタガートの感じた矛盾の正体だと私は考える。


2015年7月5日日曜日

プラットフォームの構築

書名:「ザ・プラットフォームーIT企業はなぜ世界を変えるのか?」
著者:尾原 和啓
発行日:2015/6/10
発行:株式会社PLANETS

都立中央図書館に遊びに行った時に、新刊書の棚に見つけてめくってみたところ、思いのほか面白かったのでKindleで買った。プラットフォームという言葉に、どういう意味が託されているか、が良くわかる本だった。

発見はあまり多くなかった。しばらく前に報告書で書いたこと、考えていたことを再確認する内容だった。ただ収穫は多かった。特に具体例、彼が所属した内部から書かれている具体例が大変参考になった。iモード、リクルート、楽天などである。

プラットホームとはなんだろう。この本では以下のように定義されている。

「プラットフォームとは、個人や企業などのプレイヤーが参加することではじめて価値を持ち、また参加者が増えれば増えるほど価値が増幅する、主にIT企業が展開するインターネットサービスを指します。」

また、最近の特徴として
・参加のしやすさが格段に上がった
・範囲が拡大し、生活や社会に大きな影響を与えはじめた
があるとしている。

また、彼はプラットフォームと密接な関係にあることとして、プラットホームの運営者たちの共有価値観(Shared Value)があると言っている(私はビジョンと呼んでいた)。この本も彼の共有価値観(「ふむふむ」や「ワクワク」を生む「なぜ?」の共鳴)の一つの実現として書かれている。

私は今まで、プラットフォームとは実用的なものであって、多くの人に役立つアダプタのようなものだと考えていた。実際多くの人にとってプラットフォームの見え方はそういうものだろう。ただそれは中で紹介されていたTEDの講演(サイモン・シネック「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」)におけるWhatの見方、皮相的な見方である。

プラットフォームにとって重要なのはその設計思想である。設計思想は製作者の共有価値観をコアとしている。

アップルの共有価値観はアップルの製品の設計思想のコアである。Googleの共有価値観はGoogleの各アプリやサービスの設計思想のコアである。

プラットフォームには一貫性が大事だ。プラットフォームを作る人、利用する人々はその一貫性を体得し、一貫性に基づく予測をして、手を加える、自分の目的に活用する。

一貫性が見失われた参考にすべき事例としてmixiが挙げられていた。(mixi側からの反論が聞きたいところだ)

共有価値観と設計との間には大きなギャップが存在する。戦略と戦術と言い換えてもいいかもしれない。たとえばmixiでは足あと機能は戦術の一つである。公開日記という日本独特の文化をベースに心理的なバリアを小さくして、ユーザをアクティブにステップアップさせていく仕組みが戦術である。twitterに影響を受け、その一貫性にほころびが生じた、という解説には説得力がある。

この本ではそういった様々な戦術について、具体的に書かれているのが興味深い。各社の共有価値観や戦略についてはある程度はネット調べれば出てくる。また非常に印象的に表出されるので我々の記憶にも残る。一方で共有価値観と、それぞれのアプリやサービスや製品の設計との間の関連性は中々表には出ない。

例えば、この今手元にあるiPod touchと言う製品も、たくさんの人が関わって作られている。私には、いかにもティム・クックの共有価値観が体現されているエッジの立った製品だなと思う。ジョブズのころのiPod touchのテイスト(丸いフレンドリーな、それでいて個性の強い。私は個人的にはジョブズ派)との違いが印象的だった。制作に携わる多くの人に、うまく共有価値観が伝わらないと、ティム・クックのiPod touchのような完成度の高い製品はできない。完成度と言うのは共有価値観の再現度という意味である。

サイモン・シネックのTEDの講演で、スペックをいくら謳っても人の心には何も届かない、という話が出てきた。Whyを伝えることが肝心である。そしてそれができる人は極めて数少ない。まぁそうだよなぁ。

この年齢の私にとって何が大事かというと、どれほど私にとって魅力的な、さらに多くの人の共感を得られる共有価値観を語れるかということだ。共有価値観に関しては、いろんな人に何度も何度も伝え、反芻して改善を繰り返していく必要がある、本当にその内容・表現で良いのかよくよく考える。再考する。共有価値観を言葉にするのもとても大事だ。

以下は私の共有価値観についての話だ。

私たちの毎日の生活の中には、不便な隙間がいっぱいある。みんなそんなもんだろうと思って生活している。例えば今消したこのエアコンも、まるで使い勝手は良くない。その他にも照明や寝具や場所の使い方や、とにかくいろいろな不便がたくさんある。それらの小さな、みんなが我慢している不便な点を補うところにバリューが生まれると考えている。

どれも小さいバリューなのでそんなにたくさんのお金は払えない。例えば私の家の中の片付けが多少まともになるからといって、月々3,000円のお金を払うだろうか。いや私は払わない。一個一個を取り出して見れば小さな不便であり、我慢すれば済むこと、または良くできる人ならば何とかしてしまっていることなのだ。

しかしみんなが片付けが上手でも、みんなが食材の使い方が上手でも、ゴミの出し方が上手なわけでもない。みんな何かしら苦手なことがあって、何かしら我慢をしている。それは匠に住宅改造してもらうような大掛かりなことをしなくても、多くの場合何とかなる。でも助けてくれる人はいないので、そのまま不便が不便のまま放置される。

その不便のいくつかを小さく解消して、私たちの生活のレベル、QOL(Quality of Life)を向上するところにこそ、新しいプラットフォームの存在価値がある。

もともと電気というものが、そういうものではなかったか。コンセントにプラグを差し込めば、どんな電気製品でも動くなんて、ものすごいプラットフォームだと思う。停電もしないし、電圧や周波数も安定しているので、メーカーも利用者も、ほとんど水道水のように意識せずに使えるプラットフォームである。

私がいま考えている共有価値観は
「生活のクオリティを共有し、その中で見出される隙間を丁寧に埋め、バリューが生まれる場を作る」
である。

新しいプラットフォームの構築に貢献したいと思う。かすかでも。


2015年7月2日木曜日

「忙しい」という言葉は私にとって主観的な意味を持たない

100kw氏の以下の設問が面白いので、私も考えてみた。
授業で、「時間を長く/短く感じる時について」「忙しいとはなにか」「テクノロジーは忙しさを軽減するか?」についてミニレポート出した。「忙しさとは何か。いつ忙しいと感じるのか、いつから忙しいと感じるようになったか?忙しいの対義語はなにか」ということについての考察してもらった。
— (@100kw) 2015, 7月 2

「忙しい」という言葉は私にとって主観的な意味をあまり持たない。

美味しいとか、悲しいとか、痛い、といった言葉が、それぞれに対応する私の主観、もしくは実感を思い出させるのに対して、「忙しい」には対応する実感が無い。この言葉は私にとって、むしろ他人とのコミュニケーションのための共通の符号として意味を持つ。であるにも関わらず、実は「忙しい」と伝えた相手に対して、これまた私の具体的な状態をあまり伝えない言葉でもある。ただ「不問」とか「ちょっと待ってくれ」という程度の、コミュニケーションの遮断・遅延を意味する言葉である。

さらに、この「忙しい」という言葉の面白いのは、そのように実感が薄いにも関わらず、私の状態を表す言葉として使われているという点だ。

似ているがちょっと違う言葉に「焦っている」というのがある。ただし、焦りには対応する主観や経験がある。焦ることはある。ただ焦っている時には、ほとんどの場合気づいておらず、後から振り返って、焦っていたことに気づく。そのため「焦った」と過去形で口から出ることが一般である。「いま私は焦っている」と言える人は焦っていない。

同じような言葉に「怒り」がある。怒っていることはあるが、その時に自分が怒っていると気づくことはほとんどなく、むしろ気づいたことによって、怒りが収まる場合が多い。収まった後には、諦めとか、むなしさといった別の状態に変わる。恐らく私は、抑えようのない怒り、といった本物に出会わずに済んでいる幸せ者だということだろう。

さて、もとに戻って、「忙しい」の正体について考察してみよう。

私が忙しい、と言っている時、もしくは言い訳している時には、処理速度の不足を通知している時だ。目の前にこなすべき(と感じている)タスクがあり、いずれも遅延を許されない(ように感じてしまっている)時に、私という人間の処理がオーバーフローになっていることを、周りの人物に通知する意味合いで言っている。

しかし上述したように、その時私は「忙しい」と感じているわけではない。こなすべき処理を継続している。一つ一つ書類の山を崩している。興味の湧くタスクであれば、やりがいを感じている場合もある。また、イヤイヤながら機械となって処理をしている場合もある。少なくとも、処理速度が落ちて停滞していたり、放置している状態ではない。

処理速度が落ちていたり、放置している時に「忙しい」とは言わない。「ちょっと無理」「すいません」「勘弁して」「限界です」「やーめた」というのだ、そういう時には。

忙しいという状態は、自分にとってのタスクの価値や、こなしている時の自分の主観とは関係ない。それぞれのタスクには誰かしらクライアントがいて、そのクライアントが要求している期限に対して、私の処理速度ではキツキツであるということを意味する。であるから、他人とのコミュニケーション用の言葉、ということになる。

つまり、クライアントに対して、さらには、処理を分担してもらうべき同僚に対して、さらには、私の健康状態や家事の分担に関して配慮してもらうべく、家族に対して、私の状態を伝える言葉である。

もちろん、私は自分の肉体的、また精神的なリソースを考慮して言っている。毎晩徹夜すれば、または休憩時間を減らせば、短期的にはこなせるかもしれないが、そうするとその後に大きなパフォーマンス低下が生じるため、結果的に平均的な処理速度は低下する。なので、適宜休憩や適切な睡眠をとって、自分のパフォーマンスを一定以下に落とさないようにしても、期限的に厳しいという場合に「忙しい」と言う。

このように考えているため、私の眼からは誤用に思える使い方をする人がいる。例えば、自分の趣味や楽しみを夢中になってこなしている時に、「忙しい」という人だ。それ、忙しいっていうのかな、と思う。あれは大人のジョークなのだろうか。

忙しいという言葉を使い始めたのは、クライアントから期限のあるタスクを多数与えられるようになってからである。学生時代にもクライアントはいたが、社会人になってから明らかにクライアントは増えて、期限に対する厳しさも増した。

上述したように、忙しさは処理速度と期限との関係なので、期限が緩ければ、忙しい状態にはなりづらい。期限が厳しく、処理速度の限界に近ければ近いほど、忙しいになりやすい。

こういった考え方は私が工学系、それも計算機科学を専門とするからだろうか? 多くの人は「忙しさ」を実感としてもっているのだろうか?

忙しさの対義語は、忙しくない、である。暇な時もそうだろうし、余裕がある時もそうだろう。単に私の抱えているタスクと、処理との関係を表している。

時間の経過を短く、また長く感じることはある。これは主観である。私の世界の話だ。これと忙しさとは、私にとっては関係が無い。忙しさは、私の世界の話では無いからだ。これは、いわゆる「現実」、他人と共有する約束事の世界の状態である。

テクノロジーは忙しさを軽減するか、という設問に対して、処理効率化という観点からは私は無関係、と考える。まず、忙しさは単にタスクと処理能力の関係であり、これは例えばコンピュータのCPUが速くなったからといって、コンピュータが暇になるわけではないのと同じである。

忙しさを減ずるには、タスク量をコントロールするしかない。あまりに忙しいと、上述した私のリソースは限界に達するため、たとえ多くのクライアントに感謝されても、多額の収入を得ても、私の人生にとって意味をなさなくなるため、タスク量をコントロールするしかない。

では、さらに未来を想定して、タスクを減らすのに、コントロールするのに、テクノロジーは役立つだろうか。

例えば企業にとって、職員が忙しすぎて身体や精神を損傷したのでは、企業全体としてのパフォーマンスは下がってしまう。喩えれば、右手に働かせすぎて、右手が壊れてしまう人体、といった状態が現在の企業である。いまの企業は上手にコントロールできずにいる。この状態の改善のため、センサーを職員全員に付けてもらい、職員や所属部署の状態を可視化することで、「忙しさ」そのものを制御しようという取り組みが始まっている。

おそらく、そのジョージ・オーウェル的未来では、朝、職場に入ろうとすると、忙しさが限界を超えたため、IDカードが無効になっていて、仕事が自動的に同僚に割り振られている、といったことになっているだろう。強制的に家や、病院に送られて休憩することになるだろう。

もしくは、忙しさ予測エンジンが動いていて、新しいタスクを割り振れる量が、職員それぞれに決まっていて、それを超えてメールを送ることすらできない、といったことになるかもしれない。

ただ、そこまで行ってしまうと、私は次のステップが待っているように思う。入社から退社までの職員のパフォーマンスを予測し、いかに当該企業にとって最適に活用すべきか、といった最適化プログラムが走り始める可能性があるということだ。3年間の期間雇用であるとすれば、その後、その本人がどうなろうと、期限内に企業にとって最大の貢献を与えるように使い切る、といった発想は決して悪夢ではない。

おそらく、自分自身の人生を守るために、私達自身もテクノロジーの力に頼って、それら使い捨てへの対策を講じることになるだろう。やはりイタチごっこということだ。

さて、ここまで考えてきて思うのは、クライアントからの要請の無い人生というのも味気ないものだ、ということだ。顧客であれ、生徒であれ、上司であれ、親であれ、妻であれ、娘であれ、見ず知らずの他人であれ、誰かが必要としていることを、自分の力でなんとかする、手助けをする、というのは社会的動物である我々にとって、とても大きな生きがいである。

それは、QOL(人生のクオリティ)の主要因である。つまり、忙しさというのは、私達が求めているものでもある、ということだ。そのバランスを決めるのは、テクノロジーではなく、私達自身である。






2015年2月18日水曜日

Processing で Philips hue を制御

Processingからhueを制御しようとして、PUTがうまくできずに困った。
結局、以下のように直接 Java で書けば問題なく動いた。

以下の 192.168.11.20 はhueブリッジのアドレス
newdeveloperは登録したユーザ名とする。
ユーザ名の登録の仕方は、hue api等で検索すれば出てくる。
例えば以下のサイトを参照。
http://blog.udcp.net/2013/10/09/philips-hue-api/

import processing.net.*;
import java.net.URL;
import java.net.HttpURLConnection;
import java.io.*;

Client c;
String data;
JSONObject json;
Boolean onoff;

void setup() {
  size(300, 300);
  onoff = true;

}

void draw() {
  if (onoff) {
    background(255);
    textSize(32); textAlign(CENTER); fill(0); text("ON", width/2, height/2);
  } else {
    background(0);
    textSize(32); textAlign(CENTER); fill(255); text("OFF", width/2, height/2);  
  }
};

void mouseReleased() {
  onoff = !onoff;
  lightSwitch(1, onoff);
  lightSwitch(2, onoff);
  lightSwitch(3, onoff);
};

void lightSwitch(int lightnum, Boolean onoff) {
  json = new JSONObject();
  json.setBoolean("on", onoff);
  sendPUT(lightnum, json);
};

void sendPUT(int num, JSONObject json) {
  try {
    URL url = new URL("http://192.168.11.20/api/newdeveloper/lights/"+num+"/state");
    HttpURLConnection httpCon = (HttpURLConnection) url.openConnection();
    httpCon.setDoOutput(true);
    httpCon.setRequestMethod("PUT");
    OutputStreamWriter out = new OutputStreamWriter(
      httpCon.getOutputStream());
    out.write(json.toString()+"\r\n");
    out.close();
    httpCon.getInputStream();
  } catch (Exception e) {
  }
};