2011年11月19日土曜日
お気に入りカフェに共通するのは?
2011年8月12日金曜日
有川浩がコロボックル物語を書くらしい
http://blogs.yahoo.co.jp/f15eagledj0812/archive/2011/8/11
によると、佐藤さとるの依頼を受けて、コロボックル物語の世界での、新しい物語を有川浩が執筆することになったらしい。上記の彼女のブログ記事が事情をよく伝えていてわかりやすい。佐藤の書いた物語とは全く別のものになるだろうが、確かに彼一人で終わらせるのはもったいないと思う。多少玉石混交であっても、色々な作品が出て、新しい分野を切り開いてくれれば、あの物語に深い思い入れを持つ読者の一人として嬉しい。
ところで勝手に妄想をふくらませるのは自由なので、さて私なら何を書くだろうか? まずは村上勉の強く印象的なイメージを頭から消して、全く別のイメージを持つところから始めるだろう。あれは魅力的すぎる。たぶん私なら、2011年の日本を舞台にコロボックル世界の位置づけを正確に想像して描くだろう。
2011年7月11日月曜日
飛行船通信を休止して1年
すでにネットでは、twitterであるとか、facebookであるとか、ソーシャルと呼ばれるステップに入っていて、メーリングリストは、多くの人のネット生活時間に割り込む余地がなくなっているように思う。面白げな情報はRSSリーダーで続々と入ってきて、それを流し読みするだけで時間がなくなる。
あっさりと飛行船通信もソーシャルな世界に移行すれば良かったのだろうか?それはわからない。また自分の時間がもう少し取れるようになったら立ち上げてみてもいいかもしれない。
実を言うと、メーリングリストというメディアが、飛行船通信のスタイル合っていたようにも思う。適度な距離感、手紙のやり取りに似た間のとり方。もしかすると、あえてオールドメディアに回帰して、会誌のような形にした方がいいのかもしれない。投稿を募って。どこで募ろうか。
職場でWIKIを使っていて、熱心に書きこんでくれるメンバが増えて、なかなか面白い状況になっている。ただ、それも日頃、面と向かって顔をあわせているから上手くいっているようにも思う。遠隔地に離れた忙しい者同士では難しい。
私が勝手に次の姿だと思っているのは、位置情報アプリ、ロケーションアウェアである。通信員は、日本各地、世界各地にいて、本屋、美術館、映画館、カフェ、公園、などいろんな場所で、出会った本や人、もの、作品の話題を、通信文として送り合う。場所の離れた通信員同士が、雰囲気を空気を遠隔で共有する。そうやって共有した情報をキーとしてサイトが構築され、そこに少し長いエッセイや、レビュー、もしかすると短編小説などが紛れ込んでいる、そんな感じ。自然におしゃれな雑誌が出来上がっていくような、そういうのって難しいかな。
iPadでFlipboadを使っていると、案外難しくないんじゃないか、と思えてくる。雑誌に書きこんで、自分も参加するような。みんなでスクラップブックを作るような。
2010年11月24日水曜日
Apple TVで『長靴をはいた猫』を見る
1969年公開だから、41年前のアニメ映画。映像が綺麗(HDだった)で、話も楽しくいいね。子供のころ、テレビで見たっきりだったから、ほんと久しぶりだった。わくわくするなぁ。魔王はほんと可哀想、ペロは酷い猫だねぇ。しかし、この40年間、アニメの技術は進歩したんだろうか?と思った。そうそうたるスタッフだし、安作りの今のアニメと比べてはいけないのかもしれないが。見ていて安心できる作画、丁寧な動き。ちなみに終盤の追っかけシーンは、『ルパン三世 カリオストロの城』にほんとそっくりだと再確認した。
AppleTVなかなかいい。
2010年10月3日日曜日
十三人と七人
先月末に封切りの『十三人の刺客』を見た。面白かった。迫力だった。
ただ、後味があまり良くない。ヤクザ映画のような虚しさ、無常観が、作り物めいた設定と重なって、ざらりとした後味の悪さを残した。とても良くできた映画で、役者たちの動き、表情、登場人物の個性が生きていて、特撮やセット撮影の迫力も堪能でき、時代劇風の雰囲気もたっぷり味わえた完成度の高い大型娯楽時代劇映画だ。だが、私はどうも、時代劇なるものに、後味の良さを求めているらしいことに気づいた。今まであまり意識したことがなかったのだが。では、その後味の良さとは何か。
この映画はリメイクであるし、さらには当然ながら黒澤の『七人の侍』に大きく影響を受けている。ただ、『七人の侍』を映画史に残る名作にした要素の一つが、どうもこの『十三人の刺客』の侍には無い。それは「気品」だ。昨晩、『七人の侍』を家で見返して、この映画では背筋の伸びるような気品が、端々に表現されていることに今更ながら気づいた。出てくる侍たちの身なりや服装はボロボロで落ちぶれている。だが、そのキリリとした立ち居振る舞い、考え方の背後にある倫理と生き様の水準の高さが、気品を感じさせる。
時代劇は一種のファンタジーだ。アーシュラ・K・ル=グウィンが、『夜の言葉』の「エルフランドからポキープシへ」で語ったように、私たちが生きている世界とは別の世界を、文体の力で創り上げるものだ。ファンタジーの文体の重要な要素の一つがまた、気品である。剣や魔法、ドラゴンを単なる戦争の道具、戦いの道具とするのでなく、彼らにとっての信義・倫理を具現化するものとみなす。その屹立する大樹のような精神性が、ファンタジー世界に気品を与える。
『十三人の刺客』は、時代劇でありながら、時代劇の文体を切り捨てたところにオリジナリティがある。では時代劇で描く必要があったのか?いや、時代劇というフレームの大きさが、この完成度の高い娯楽映画を生んだのだろう。いわゆる時代劇だと思って見るから、私のような勘違い者が出てくる。必殺などと同じく、新しいサブジャンルなのだと考えるべきなのだろう。
2010年8月15日日曜日
iPadはパソコンではない。でかいiPhoneでもない。きっと新しい世界への入り口だ
1. パソコンではない
少なくとも、パソコンと同じではない。デスクトップパソコン、ノートパソコン、また、ネットブックとも違う。パソコンを期待して買うと、がっかりするのではないかと思う。大きく違うのは、(1) ファイルシステムが操作できない、(2) 情報作成環境が弱い、(3) ハードウェアキーボードが無い、といった点だ。
パソコンは、ファイル中心にできている。例えば、テキストファイルがあって、それを色々なアプリケーションで見たり、編集したりする。iPadはアプリケーション中心になっていて、同じファイルを別のアプリケーションで操作するのは、やりづらいか不可能だ。このファイルシステムが無い(見えない)、というのが、次の情報作成環境が貧弱、にもつながっている。
パソコンは文章にしろ、画像にしろ、さまざまな情報を作成するのに向いているが、iPadで情報を作るのはとても面倒、または不可能である。Webページ、PDF、画像、映像などを閲覧するのにはとても便利かつ快適だが、いざ何か書こうとか、作ろうと思うと急にハードルが高くなる。その意味でテレビに近い。iPhone/iPod touchは、画面が小さく、処理速度も遅く、何か作ろうと思う余裕がなかったので、それほど気にならなかったが、iPadの処理能力には余裕があるのに、作れない、というのは歯がゆい感じがする。
そしてハードウェアキーボードが無い。ソフトキーボードの使い勝手が悪い、とは思わない。十分良くできていると思う(ただしカナ漢字変換はひどい)。しかしiPadのソフトキーボードはおまけである。一方で、私はパソコンを使うときに、キーボードから指を離すことが少ない。カーソルの移動はもちろん、アプリケーションを変更、コピー・ペーストなど、すべてキーボードで操作する。iPadはタッチインタフェースに特化している。
Macにしろ、Windows, Linuxにしろ。パソコンを使っていると、何か作りたくなる、少なくとも私は。それに対して、今のiPadは受身の態度を要求する。なんか寂しい。もちろん後述するように、良いアプリケーションがまだ少ないのも理由のひとつだろう。
2. iPhone/iPod touchとも違う
「でかいiPhoneだ」という人も多いが、私はずいぶん違うように思う。OSは同じなので、大きくて、重くて、処理が速い、というが違いなのだが、それによって使い勝手がずいぶん違う。あたりまえだが、街角で赤信号を待つ間にちょっと何か調べ物をしたり、といった用途には向いていない。座って使うものだ。
iPhoneやiPod touchの大きな意味は、普段パソコンを使うことが無い、家やオフィスの外で使えるという点だ。外での経験、外での情報と組み合わせて面白みが出る。外出先で、食べログを調べて、店を探す。味わう。コメントをアップする。外出先で友人と離合集散しながら、iPhoneでコミュニケーションを続ける。こういう利用で光る装置だ。座って使うiPhoneやiPod touchに魅力は少ない。
この外で使うメリットを削ぐのが、iPadのサイズだ。信号待ちの最中にiPadをカバンから取り出すのは変だろう。画板のように肩から下げるか?
しかし座って、Webページや、PDF、画像などの閲覧をはじめると、その快適さにうなる。タッチインタフェースもあいまって、スムーズに閲覧できてストレスが少ない。これはiPhone/iPod touchとはまるで違う次元だ。
また上述のように、処理能力にかなり余裕がある。だから単に閲覧するのに使うのでは、十分に潜在能力が生かされていないように感じる。例えばsling Noteというスクラップブック作成ソフトを使っていると、まだ出来は悪いが、「そうだ、こういう箱庭のようなモノづくりのスペースとして使えると、とても魅力的だ」と感じる。
3. 新しい世界の入り口
この平たいコンピュータは、まだその真価を発揮していない。私には、20年前にMacを初めて触った時、また初代iPodを触った時に感じたような、荒削りな可能性、おぼろげな入り口が見えるような気がする。
iPadは他のアップルプロダクトと同じく「引き算」で作られている。引き算で作っているために、その特質が良くも悪くもあからさまになっている。今はまだ、この装置の真の魅力を引き出せるソフトウェアは、出来ていないのではないかと思う。椅子に座り、指を使って操作する平たいコンピュータ空間、隣に座っている人にすぐに見せることができる回覧板、姿勢や所在地を検出して姿を変えることのできる装置、いくつものキーファクターがある。もしかすると名前だけでなく、アランケイのビジョンに近い何かが現れるかもしれない。
2010年7月2日金曜日
列車のファンタジー
出張帰り、家の近所のカフェで少しくつろいでいる。さすがにこの時間、客は少ない。店内には、オーボエの軽快な音楽が流れている。曲調はウェスタンか、カントリーか。
線路の側の店なので、時々電車が通る音がする。天井にある大きな羽が空気をゆっくり掻いている。エアコンの風が直接あたるより快適な気がするが、なぜだろう。
そういえば、けさ日暮里駅のホームで、目の前をEF81に牽引された寝台特急を見た。青い客車の窓に、趣きのある明かりが並んでいるのが見えた。北斗星だった。
N700が普及して、新幹線はずいぶん快適になった。スピードも速い。今の時代、たしかに寝台特急は贅沢な無駄なのだろう。ただ私には憧れがある。列車で寝起きして遠くまで旅をする。見知らぬ土地で、車窓から朝日を見る。
芥川龍之介の『蜜柑』という短編を読んだ。横須賀線の話だ。目の覚めるような見事な短編で、蜜柑のシーンが映画の1シーンのように記憶に残る。心の奥のあたりがジンとなる。
列車に乗って、少し遠くまで行ってみたいな。

