2011年7月11日月曜日
飛行船通信を休止して1年
すでにネットでは、twitterであるとか、facebookであるとか、ソーシャルと呼ばれるステップに入っていて、メーリングリストは、多くの人のネット生活時間に割り込む余地がなくなっているように思う。面白げな情報はRSSリーダーで続々と入ってきて、それを流し読みするだけで時間がなくなる。
あっさりと飛行船通信もソーシャルな世界に移行すれば良かったのだろうか?それはわからない。また自分の時間がもう少し取れるようになったら立ち上げてみてもいいかもしれない。
実を言うと、メーリングリストというメディアが、飛行船通信のスタイル合っていたようにも思う。適度な距離感、手紙のやり取りに似た間のとり方。もしかすると、あえてオールドメディアに回帰して、会誌のような形にした方がいいのかもしれない。投稿を募って。どこで募ろうか。
職場でWIKIを使っていて、熱心に書きこんでくれるメンバが増えて、なかなか面白い状況になっている。ただ、それも日頃、面と向かって顔をあわせているから上手くいっているようにも思う。遠隔地に離れた忙しい者同士では難しい。
私が勝手に次の姿だと思っているのは、位置情報アプリ、ロケーションアウェアである。通信員は、日本各地、世界各地にいて、本屋、美術館、映画館、カフェ、公園、などいろんな場所で、出会った本や人、もの、作品の話題を、通信文として送り合う。場所の離れた通信員同士が、雰囲気を空気を遠隔で共有する。そうやって共有した情報をキーとしてサイトが構築され、そこに少し長いエッセイや、レビュー、もしかすると短編小説などが紛れ込んでいる、そんな感じ。自然におしゃれな雑誌が出来上がっていくような、そういうのって難しいかな。
iPadでFlipboadを使っていると、案外難しくないんじゃないか、と思えてくる。雑誌に書きこんで、自分も参加するような。みんなでスクラップブックを作るような。
2010年11月24日水曜日
Apple TVで『長靴をはいた猫』を見る
1969年公開だから、41年前のアニメ映画。映像が綺麗(HDだった)で、話も楽しくいいね。子供のころ、テレビで見たっきりだったから、ほんと久しぶりだった。わくわくするなぁ。魔王はほんと可哀想、ペロは酷い猫だねぇ。しかし、この40年間、アニメの技術は進歩したんだろうか?と思った。そうそうたるスタッフだし、安作りの今のアニメと比べてはいけないのかもしれないが。見ていて安心できる作画、丁寧な動き。ちなみに終盤の追っかけシーンは、『ルパン三世 カリオストロの城』にほんとそっくりだと再確認した。
AppleTVなかなかいい。
2010年10月3日日曜日
十三人と七人
先月末に封切りの『十三人の刺客』を見た。面白かった。迫力だった。
ただ、後味があまり良くない。ヤクザ映画のような虚しさ、無常観が、作り物めいた設定と重なって、ざらりとした後味の悪さを残した。とても良くできた映画で、役者たちの動き、表情、登場人物の個性が生きていて、特撮やセット撮影の迫力も堪能でき、時代劇風の雰囲気もたっぷり味わえた完成度の高い大型娯楽時代劇映画だ。だが、私はどうも、時代劇なるものに、後味の良さを求めているらしいことに気づいた。今まであまり意識したことがなかったのだが。では、その後味の良さとは何か。
この映画はリメイクであるし、さらには当然ながら黒澤の『七人の侍』に大きく影響を受けている。ただ、『七人の侍』を映画史に残る名作にした要素の一つが、どうもこの『十三人の刺客』の侍には無い。それは「気品」だ。昨晩、『七人の侍』を家で見返して、この映画では背筋の伸びるような気品が、端々に表現されていることに今更ながら気づいた。出てくる侍たちの身なりや服装はボロボロで落ちぶれている。だが、そのキリリとした立ち居振る舞い、考え方の背後にある倫理と生き様の水準の高さが、気品を感じさせる。
時代劇は一種のファンタジーだ。アーシュラ・K・ル=グウィンが、『夜の言葉』の「エルフランドからポキープシへ」で語ったように、私たちが生きている世界とは別の世界を、文体の力で創り上げるものだ。ファンタジーの文体の重要な要素の一つがまた、気品である。剣や魔法、ドラゴンを単なる戦争の道具、戦いの道具とするのでなく、彼らにとっての信義・倫理を具現化するものとみなす。その屹立する大樹のような精神性が、ファンタジー世界に気品を与える。
『十三人の刺客』は、時代劇でありながら、時代劇の文体を切り捨てたところにオリジナリティがある。では時代劇で描く必要があったのか?いや、時代劇というフレームの大きさが、この完成度の高い娯楽映画を生んだのだろう。いわゆる時代劇だと思って見るから、私のような勘違い者が出てくる。必殺などと同じく、新しいサブジャンルなのだと考えるべきなのだろう。
2010年8月15日日曜日
iPadはパソコンではない。でかいiPhoneでもない。きっと新しい世界への入り口だ
1. パソコンではない
少なくとも、パソコンと同じではない。デスクトップパソコン、ノートパソコン、また、ネットブックとも違う。パソコンを期待して買うと、がっかりするのではないかと思う。大きく違うのは、(1) ファイルシステムが操作できない、(2) 情報作成環境が弱い、(3) ハードウェアキーボードが無い、といった点だ。
パソコンは、ファイル中心にできている。例えば、テキストファイルがあって、それを色々なアプリケーションで見たり、編集したりする。iPadはアプリケーション中心になっていて、同じファイルを別のアプリケーションで操作するのは、やりづらいか不可能だ。このファイルシステムが無い(見えない)、というのが、次の情報作成環境が貧弱、にもつながっている。
パソコンは文章にしろ、画像にしろ、さまざまな情報を作成するのに向いているが、iPadで情報を作るのはとても面倒、または不可能である。Webページ、PDF、画像、映像などを閲覧するのにはとても便利かつ快適だが、いざ何か書こうとか、作ろうと思うと急にハードルが高くなる。その意味でテレビに近い。iPhone/iPod touchは、画面が小さく、処理速度も遅く、何か作ろうと思う余裕がなかったので、それほど気にならなかったが、iPadの処理能力には余裕があるのに、作れない、というのは歯がゆい感じがする。
そしてハードウェアキーボードが無い。ソフトキーボードの使い勝手が悪い、とは思わない。十分良くできていると思う(ただしカナ漢字変換はひどい)。しかしiPadのソフトキーボードはおまけである。一方で、私はパソコンを使うときに、キーボードから指を離すことが少ない。カーソルの移動はもちろん、アプリケーションを変更、コピー・ペーストなど、すべてキーボードで操作する。iPadはタッチインタフェースに特化している。
Macにしろ、Windows, Linuxにしろ。パソコンを使っていると、何か作りたくなる、少なくとも私は。それに対して、今のiPadは受身の態度を要求する。なんか寂しい。もちろん後述するように、良いアプリケーションがまだ少ないのも理由のひとつだろう。
2. iPhone/iPod touchとも違う
「でかいiPhoneだ」という人も多いが、私はずいぶん違うように思う。OSは同じなので、大きくて、重くて、処理が速い、というが違いなのだが、それによって使い勝手がずいぶん違う。あたりまえだが、街角で赤信号を待つ間にちょっと何か調べ物をしたり、といった用途には向いていない。座って使うものだ。
iPhoneやiPod touchの大きな意味は、普段パソコンを使うことが無い、家やオフィスの外で使えるという点だ。外での経験、外での情報と組み合わせて面白みが出る。外出先で、食べログを調べて、店を探す。味わう。コメントをアップする。外出先で友人と離合集散しながら、iPhoneでコミュニケーションを続ける。こういう利用で光る装置だ。座って使うiPhoneやiPod touchに魅力は少ない。
この外で使うメリットを削ぐのが、iPadのサイズだ。信号待ちの最中にiPadをカバンから取り出すのは変だろう。画板のように肩から下げるか?
しかし座って、Webページや、PDF、画像などの閲覧をはじめると、その快適さにうなる。タッチインタフェースもあいまって、スムーズに閲覧できてストレスが少ない。これはiPhone/iPod touchとはまるで違う次元だ。
また上述のように、処理能力にかなり余裕がある。だから単に閲覧するのに使うのでは、十分に潜在能力が生かされていないように感じる。例えばsling Noteというスクラップブック作成ソフトを使っていると、まだ出来は悪いが、「そうだ、こういう箱庭のようなモノづくりのスペースとして使えると、とても魅力的だ」と感じる。
3. 新しい世界の入り口
この平たいコンピュータは、まだその真価を発揮していない。私には、20年前にMacを初めて触った時、また初代iPodを触った時に感じたような、荒削りな可能性、おぼろげな入り口が見えるような気がする。
iPadは他のアップルプロダクトと同じく「引き算」で作られている。引き算で作っているために、その特質が良くも悪くもあからさまになっている。今はまだ、この装置の真の魅力を引き出せるソフトウェアは、出来ていないのではないかと思う。椅子に座り、指を使って操作する平たいコンピュータ空間、隣に座っている人にすぐに見せることができる回覧板、姿勢や所在地を検出して姿を変えることのできる装置、いくつものキーファクターがある。もしかすると名前だけでなく、アランケイのビジョンに近い何かが現れるかもしれない。
2010年7月2日金曜日
列車のファンタジー
出張帰り、家の近所のカフェで少しくつろいでいる。さすがにこの時間、客は少ない。店内には、オーボエの軽快な音楽が流れている。曲調はウェスタンか、カントリーか。
線路の側の店なので、時々電車が通る音がする。天井にある大きな羽が空気をゆっくり掻いている。エアコンの風が直接あたるより快適な気がするが、なぜだろう。
そういえば、けさ日暮里駅のホームで、目の前をEF81に牽引された寝台特急を見た。青い客車の窓に、趣きのある明かりが並んでいるのが見えた。北斗星だった。
N700が普及して、新幹線はずいぶん快適になった。スピードも速い。今の時代、たしかに寝台特急は贅沢な無駄なのだろう。ただ私には憧れがある。列車で寝起きして遠くまで旅をする。見知らぬ土地で、車窓から朝日を見る。
芥川龍之介の『蜜柑』という短編を読んだ。横須賀線の話だ。目の覚めるような見事な短編で、蜜柑のシーンが映画の1シーンのように記憶に残る。心の奥のあたりがジンとなる。
列車に乗って、少し遠くまで行ってみたいな。
2010年5月19日水曜日
前へ一歩出る
前へ一歩出ると楽になる。
子供の頃から今まで何度も一歩手前でもじもじして踏み出せず堂々巡りをして苦しい思いをしたことがある。
小学校低学年のころに近所の友達の家に行き、裏口の扉の前でさんざん逡巡して、けっきょく家に帰ってしまったことがある。たぶん約束していなくて、でも遊びたいと思って、家から来たのだろうと思う。その友達の家の裏口の白いペンキの塗られた古びた戸のイメージがいまだに瞼に浮かぶ。実際どのくらいの時間、立ち尽くしていたのかは分からない。ほんの何十秒だったのか、数十分もなのか。でも、その時の私には無限に長い感じがした。
ちょっとした行き違いが心に引っかかって、喋りにくくなった同僚に声を掛けるのをためらう。小さなことなのだけど、それが妙に印象に覆いかぶさって、ちょうど仕事も忙しいし、相手も忙しそうにしているから、と自分にする言い訳はたくさんあって、時間が過ぎてゆく。
気に掛かる仕事を持ちつつ、また連絡の大事なメールを待ちつつ、少し長い休みに入ってしまって、事態が悪くなっていないといいが、と思いながら出勤する月曜日、ブルーだ。
そんな時、いまの自分をちょっと横におく。自分の思考、ためらい、慮り、プライド、羞恥心、怒り、思惑、仕事、体調、何もかも、今の自分というものを、横におく。すべてを置いて、前へ一歩出る。
電話をかける。声をかける。近づいて顔を見合わせる。手をあげる。メールを書く。入り口に踏み込む。ドアを叩く。職場に出て机に座る。挨拶をする。前へ一歩足を踏み出す。
ほとんどの場合、拍子抜けするぐらい簡単に事が進む。上手くいかない時も、一歩後ろでもじもじしていたころに比べるとずっと楽だと感じる。
だけどまた、たぶん「もじもじ」してしまうんだろうなぁ。未来の自分にエール。
2010年5月9日日曜日
『「お客様」がやかましい』感想
森さん、あいかわらず見事、「あ、まさにそう」と感じる一冊だ。わかりやすい本だけれど、問題の根深さには目が眩む。そのため、ところどころ読むのが辛くなった。
昔はデパートや、気取ったレストランでしか聞かなかった「お客様」という呼び方が、普通になっている。100円のハンバーガーを買っても、105円の野菜ジュースを買っても、「お客様」である。この「お客様至上主義」の現状と、そのクリティカルな悪影響を語る本だ。
ただ、この本でも取り上げられていて、ネットでも時々見かける次の意見にはちょっと異論がある。それは、海外だと日本のような馬鹿丁寧な顧客対応はしないし、それで気にならない、という話だ。この話の前段、日本のようなバカ丁寧さはない、には同意、しかし後段の「気にならない」には一部反対だ。
まず、ヨーロッパではあまり気にならない、というのは確かだ。それなりに金を出す店では、それなりの対応をしてくれる。スーパーマーケットに行くと、全体に事務的な対応をされる。また個人商店に行けば、人懐っこい対応をされることも多い。ドイツ、スイス、オーストリア、イタリアなど、お国柄で多少違うが、まぁバランスの取れた対応と感じることが多い。日本での対応に慣れていると多少素っ気ない感じはするが、まぁ不快ではない。
しかし、アメリカの対応は酷いと思う。素っ気ないとか、事務的というレベルではなく、ぞんざいだ。時に乱暴に近い。私はニューヨークしかしらないので,他の街は違うのかもしれないが。街の商店などで買い物をすると、何か嫌な事でもあったのか、というような対応に何度も出会う。実際彼ら・彼女らは嫌な目にあっているのかもしれない。もちろん高級イタリアンレストランなど、それなりに金を出す店に行けば対応は違う。しかし、このドライな感じは、日本人の私にとって、けっこう寂しい感じがする。
EUは統合が進むにつれて、どんどん変わっているので、いずれはヨーロッパもアメリカのようになるのだろうか。そうなら寂しいと思う。
そして、実は日本のチェーン店などでの、口だけ丁寧な対応が彷彿とさせるのは、アメリカのぞんざいな対応だ。口先だけの丁寧さは、次の瞬間に殴られるかもしれない、というような危うい人間関係を感じる。
私は、相手とのやり取り、ちょっとした修正、確認、挨拶、表情、仕草などを通じて、相手の人となり、状態を知る。そして、そのやり取りを通じて、少なくとも次の瞬間に、ぶち切れたりはしないと安心する。
しかし口先だけの丁寧な対応、マニュアル通りの台詞を繰り返す人物からは、そういった状態情報を得ることができない。だから不安である。不安なままである。
みんな急いでいる。何かに向かって、一分一秒を急いでいる。無駄なやり取りで「生産性を下げ」ている暇はない。エンデの『モモ』を思い出すね。